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 引っ越しの際、どうしても手放せない物があるかと思う。    お気に入りのソファーであったり、思い出のアルバムであったり、人によっては本や縫いぐるみであったりもするだろう。    私にとってのそれは鏡であった。    その鏡は、鏡台に取り付けられた三面鏡で、年代が感じらる造りであり、母が幼少の頃から側にあった物と聞く。    この鏡と共に私は育った。  この鏡を見て、母に髪結いをしてもらった。この鏡を見て、化粧の勉強をした。    そしてこの鏡もまた、私を見てきたのであろう。  鏡台の側面には初恋の人の名前が掘ってある。その反対側には罰点マークのついた相合い傘。小さな引出しを開けると結婚式の記念写真。    この鏡は私の全てを知っている。    今、鏡に映る私の傍らで、新しい部屋に荷物を下ろす彼が映っている。    鏡に映る二人を見て、ふと、私は思う。    私にとっての鏡であるように、彼にとっての私でありたいと。私は願う。   「ねえ。これからもよろしくね」    鏡を通して私と彼の目線が交差する。返事をするように、頬に刻まれた愛らしいえくぼが私に向けられた。    ――次は子どもが欲しいな。     彼の暖かさが桜の香りと共に春風に舞う、そんな優しい午後のお話。
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