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 バスから降りると随分冷たい風が吹いていた。徐々に冬が顔を出して来たようだ。  一歩進む度にその分、家が近づいてくる。いつもは何とも感じないこの道のりが、いやに短く感じるし、また長くも感じた。  アパートの階段を登る時、左右の足どちらから出せばいいのか分からなくなって一瞬躓いた。  一番奥の扉の黒川の表札が見える。ドアーからは三日分の新聞が舌を出している。その舌を無視して鍵を開ける。普段は彼女がいるために開きっぱなしのドアーだ。だからだろうか、鍵を開けるだけの行為が酷くちぐはぐに感じる。  ドアーを引いて敷居を乗り越える。室内は真っ暗だった。 (ああ、……君はもういないのか)  手探りで電気を点ける。明るくなった部屋の中はとても寒くて、体が震えた。  『ただいま』という挨拶は、返事を期待しての行為なのだなあと初めて実感した。『おかえりなさい』と返されて、ようやく自分の帰るべき場所に帰って来たと実感するのだ。  それだけで体中から力が抜けて安心できる。そのためにとても大切な行為だったのだ。  ただ、尚人には、『ただいま』と言うべき相手も、『おかえり』と返してくれる人も、もういなかった。  靴を脱いで、向きを揃える。いつもの玄関は、靴がいつもより一足少ないだけで随分とそこは寒々しい。自分の靴より一回り小さい可愛らしい靴が足りなかった。  そして尚人の涙腺は限界を迎え、二、三粒の滴がこぼれる。石造りの玄関に垂れて落ちて黒い染みになった。 (心筋梗塞ってなんなんだよ)  尚人はこぼれる涙を止めようと下唇を噛んでみたが、焼石に水だ。一度穴が空くと、そこから涙が次々と溢れ穴を広げる。もう、その流れを止めることなんて誰にも出来はしない。  尚人はその場で後ろに倒れ、仰向けになると、そのままの姿勢で静かにすすり泣いた。
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