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君と僕とサイレン
タイチはサイレンの音が嫌いだ。
パトカーでも消防車でも救急車でも、とにかくサイレンの音が嫌いだ。
サイレンは遥か遠くで鳴っていても狭い団地内に響き渡る。
タイチは条件反射の様に、鳴っている方角から逃げ耳を閉ざしてしまう。
三歳の頃、ろくに顔も覚えてない父親が家を出ていくことになった時に聞こえていたのがサイレンだった。
あの音は誰かの何かを奪っていく音だ。
幽霊や妖怪のようなものと同一視してタイチはサイレンに恐怖し、サイレンを嫌悪していた。
その日も、そんなタイチの耳にサイレンの音が聞こえた。
小学四年生の八月、昼過ぎ。
夏休みが半分過ぎようとしたそんな一日。
いつもの様に条件反射で、タイチは鳴っている方角を探した。
こっちだ。
押し入れから出したビデオテープが散らかった部屋の一角をじっと見つめる。
方角を把握したタイチは、逃れるためにと目を瞑り耳を閉ざすがサイレンの音に集中してしまう。
サイレンの音は、いつもと違って大きく鳴り響いている。
次第に小さく遠くなるいつもと違い、その日は段々と近く大きく聞こえてきている。
一番大きく鳴ったところで、サイレンは突然鳴り止んだ。
タイチは窓を開け、外に窓枠に身を乗り出した。
救急車だ。
二棟隣の六棟の前に救急車が止まっていた。
タイチと同じ様にサイレンを聞いていたのか、早くも数人野次馬が集まっている。
タイチはまた誰かが連れ去られるのだと恐くなって、慌てて自分の部屋を出た。
ドアを開ければそこはすぐ玄関で、靴を履いた。
靴下を履いてなかったので履き心地は悪かったが、構わずマジックテープをキツく絞めた。
台所から母親が呼び止めていたが、大丈夫と強がりを返して恐る恐る鍵を開けてドアノブを回した。
台所からの匂いで、今日のおやつにタマゴサンドが用意されてるとわかってタイチは少し嬉しくなった。
タイチが三階分の階段を駆け足で降りていき、二棟分の距離を急いで走ったにも関わらず既に野次馬はかなりの数になっていた。
休日の昼間とはいえ、よくもこんなに住人がいたものだ。
タイチは野次馬達が取り囲んでいる中心を見たかったが、タイチより一回りも二回りも大きい大人達は見事な壁となった。
タイチは諦めて、救急車を見ることにした。
誰かを連れていく恐怖の対象、救急車が目の前にある。
タイチはやっぱり恐くなって、救急車から視線をそらした。
照りつける太陽は暑く、じりじりと肌を焼く。
走ってきたから、Tシャツはもう汗だくだ。
団地の壁に張りついた蝉達の鳴き声が反響して響く中、タイチは目の前の救急車が少し揺れた音を確かに聞いた。
誰かが中に運び込まれたのだ。
旦那さん。
死んだ。
階段。
事故。
可哀想。
奥さん。
可哀想。
娘さん。
野次馬達が、口々に何かを言っている。
タイチはそれを上手く整理できず、理解できなかった。
何だか凄く気になりだしたので、野次馬達が取り囲んでいる中心を見てやろう。
タイチはそう思って、草むらを掻き分けるように野次馬達の脚の間を割って入った。
強引に割って入るタイチに、舌打ちする大人もいた。
タイチは嫌な気がしたが無視して、脚の間を掻き分け中心部分に出た。
泣きじゃくっている女性と、その左側に救急隊員。
救急隊員は、女性を支えるように立っている。
右側には、その女性の手を握っている少女。
タイチは、その少女を知っていた。
同じクラスの、高塚クミだ。
タイチにはおとなしいというイメージしか湧かない少女で、三年生から同じクラスだが笑ったところをまだ見たことが無かった。
クミは、手を握っている女性、クミの母親とは対称的に泣いていなかった。
クミの腰まで伸びた長い髪が、そっと風に揺れる。
少女らしいピンクのTシャツに、いつも通りの白のロングスカート。
細い眉につり上がったような瞳が、冷たい印象を受けさせる。
タイチは今までまじまじと見たことの無かったクラスメートの姿を、じっと見つめていた。
まるで、吸い込まれる様に。
クミは、救急車を見ている。
ただ、茫然と。
けれど、冷淡に。
救急車への運び込みが終わり、後ろのドアが閉められる。
ばん、と音がなり何人か野次馬が帰っていく。
クミの母親に付き添う救急隊員は、何かをまだクミの母親に話しかけていたが、クミの母親がそれをちゃんと聞いているとはタイチにだって思えなかった。
ふと、誰かの視線に気付いたのかクミが救急車から視線をそらした。
タイチは何故か気になってその視線を追いかけた。
そこにはタイチとよく似た同じクラスの安井タイチが立っていた。
名前が一緒で見た目も何処か似てると周りからはよく弄られて、それが何となく恥ずかしくてちゃんと話したことはなかった。
タイチには安井とクミと見つめあっている様に見えた。
それでタイチは救急車に何かを奪われたクミが悲しむことはないのかもしれないと、何故かそういう風に思えて、少しばかり怖さが無くなっていた。
やがて、救急隊員が全員乗り込み救急車が走り出しても、タイチは安井とクミから視線を外せずにいた。
そうしないと悲しみと怖さがまたやってくるんだと、何故だかそんな風に感じていた。
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