5人が本棚に入れています
本棚に追加
その時私は何才だっただろうか。もう忘れてしまったが。
知り合いが入院したという理由で、母とお見舞いに行った。
といっても、それは母の知り合いであり、幼い私には話題の一つも分からない。
最初こそ大人しくしていたが、段々つまらなくなり、一人で廊下に出た。
はっきり覚えているのは、やたらと眩しい夕日。
今思えば、西向きの廊下だったのだろう。
夕日を背景にした町並みは、切り絵のように影がはっきりしていて、細い電線が空を区切っているように見えた。
なんの気なしに、風景を眺めているといつのまにか周りの音が遠くなり、風景がひどく浮いて見えた。
遠くから、クラクションやタイヤの音。
大きな道からする音だけが、ぼやぁっと間延びして聞こえる。
ざかざかざかざか
乾いた紙を引っ掻くような音がした。
それは大きな道から聞こえる。
切り絵のように見える建物の隙間を動く大きな何か。
それはやたらと大きい蜘蛛だった。
足は伝線をゆうに越え、小さな建物などは体に隠れてしまう。そんな大きな蜘蛛。
茶色の毛や、黒っぽい体は、家の中にいる地味な蜘蛛に似ていた。
ざかざかざかざか
音が次第に遠くなり、消えた。蜘蛛は夕日の光に飲まれて見えなくなり、音は耳元に帰ってきた。
母の声
見舞いが終わったのだろう、帰るよと、声をかけられた。
「お母さん、大きな蜘蛛がね、道を走っていった」
手をつなぎ、母に報告した。
身振り手振りを加え、大きな道を指し示し、説明する。
子供の戯言に、母はきちんと答えてくれた。
「大きな道だからね。歩きやすいから、きっと人間以外も使うんだよ」
戯れ言を、信じてはいなかっただろう。ただ、否定すれば、面倒だと思ったのかもしれない。
とにかく母は、そう答えた。
幼い私は母が、話を信じてくれたのだと満足して、車に乗り込んだ。
「歩きやすいのだから、きっと人間以外も使う」
今思えば、真理かもしれない。百鬼夜行も、山の妖怪も、出会うのは道と相場が決まっている。
私は今、高速道路を走るバスの中にいる。
連なる車の間に、変に開いたスペース。本能的に、道を譲っているかもしれない。
歩きやすいのだから、道を使う、何か、に。
最初のコメントを投稿しよう!