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この中へは祭礼のときにのみ族長が入ることが許されている聖域だった。族長は祭りが終わりに近づくと、ただ一人中へ入っていきその年の吉凶を占うのだ。
ラサ・ココへの通路に眼をこらしてみる。
深い闇の中からデュマの声が聞こえてきた。
老いたデュマの歌声は、若いイフニの歌ほど力強い響きをもっていなかったが、ファナはその細く透きとおるような歌声が大好きだった。夕暮れ時に砂漠からわたってくるおだやかな涼風にも似た歌声が。
ファナはデュマのラサ・ココを見てみたいという誘惑にかられたが、やがてゆっくりとデュマの歌声に背を向けた。族長でない者がラサ・ココへと入ることは部族の掟の中でも最大の禁忌<タブー>の一つとされていたからだ。
赤い砂漠へと眼をむける。
傾きかけた巨大な夕陽が赤砂の風紋がつづく砂の海へと光のさざ波をたてている。
ファナは瞼を閉じると、飛行している自分の姿をイメージした。
この場所から飛び降りて滑空に入る。
翼をすりぬけていく風の流れ。
アビラがとらえる気流の動き。
ここまではいい。問題はこの先だ。
翼をわずかに傾け旋回に移る。
だが旋回に移った途端、揚力を失い落下していく感覚がファナを襲った。
「夢の中じゃ、うまく飛べたのになぁ」
額の傷から流れる血はすでに止まっていたが、いまだに不快な痛みをともなって疼いている。
「弱気は禁物。やっぱり練習で飛びつづけるしかないか」
ファナは幹に刻まれた階段のはしまで歩いていくと、夕陽にむけて翼をひろげた。
飛び立とうとした瞬間、ファナの全身に震えがはしった。
危うくデュマから落ちかけ、反射的に左の翼指を幹に突き立てる。体は歪に湾曲した幹のへりに達したところで止まった。
両足が空中に投げ出され、ゆらゆらと動いている。
アビラが砂嵐の烈風にもにた興奮をとらえていた。その余りにも激しい波動のため、ファナの意志とは無関係に口元にはひきつった笑みが浮かんでいる。
祭礼や神事においてのみ許されるアビラの集団での解放だった。
何か部族の者たちを熱狂させる事件が起こったのだ。
なんとか傾斜のゆるやかな場所まで這いずっていくと、ファナは困惑の面もちで半身をおこすと一族の住むミトラを見やった。
濃い群青から薄墨色へと染まりゆく空を身にまとい、聖なるミトラは沈みゆく夕陽の名残をその肌に輝かせていた。
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