1章

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         この家に、父親というものの気配はほとんど感じられない。      8年前、価値観の違いから夫と離婚した美代は、話し合いの末まだ幼かった健治を引き取った。和解という形ではあったものの、それはほぼ一方的なものだったと言えた。「もし、今、私が健治を失えば、私は私を失うの」目に大粒の涙を浮かべながら、彼女は必死にそう訴え続けた。結果として経済力の差を主張していた彼女の夫も身を引き、彼女は今こうして、健治と二人裕福ではないにせよ楽しげな生活を送っている。      二、三年ほど前までは、健治が父親の元へ会いに行くことも時々あったのだが、いつものように健治が父親の部屋を訪ね、出てきたのが父親ではなく見知らぬ若い女だった時から、それもめっきり途絶えていた。             「ごちそうさま」   「おそまつさま」      出された料理を食べきった健治は、食器を下げ、鞄を持ってそのまま自分の部屋へと戻っていった。静かに立ち上がった美代は、短くなったタバコを灰皿に捨て、健治が下げた皿を洗い始めた。      キッチンから見える誰もいなくなったリビングは、いつもより広く彼女の瞳に映り込んでいた。    
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