二、自我

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全ての生き物に『自分』を感じることが出来れば容易に他の生き物を傷つけることは出来なくなる。例えば、友人と喧嘩になったとしよう。自分が放った言葉、視線、表情などを相手の『自分』になって見てみれば良い。簡単に言うと鏡を見ている状態だ。きっと嫌な気持ちになり、攻撃的になれなくなるはずである。相手が人間でない場合も同じこと。全てが『自分』なのだから・・・。 ここで『自我』についてもう少し掘り下げて考察してみようと思う。 全ての生き物の『自我』が共通する感覚であるならば、今の『自分』が死んだ場合はどうなるのだろうか?答えは簡単である。死んだ瞬間にどこかで生まれた『自我』になるのだ。 人間かも知れない。 野生動物かも知れない。 ペットかも知れない。 魚かも知れない。 昆虫かも知れない。 一番辛いのは人間の欲望を満たす為だけに繁殖、飼育される『家畜』や『競走馬』、動物園等の『鑑賞用』、マウス等の『実験用』などだ。 特に『家畜』は耐え難い。食肉用の場合、産まれた時から天寿を全うする事が許されず、更に成長して産んだ子ども達まで命を奪われてしまう・・・鶏の雌などは狭い檻の中で死ぬまで卵を産み続けなければならない。 『鑑賞用』も辛い。子供の頃、海に面した水族館に行ったときに見た光景は今でも眼に焼き付いて離れない。 イルカのプールは細長い鉄格子を隔てて海と直結していたのだが、その鉄格子からジッと海を見続けているイルカがいた。水面を叩いても微動だにせず、ただただ海に焦がれているように見えた。その姿を良く見てみようと水面に顔を近付けたとき、言葉を失った。頭部が傷だらけだったのだ。恐らく鉄格子に何度も頭をぶつけていたのだろう。逃げられない事がわかっていても海に帰りたくて眺め続けているその姿に大きな衝撃を受けて、気付いたら泣きながら鉄格子を持ち上げようとしていた。すぐに係員に止められたが、その場を連れ去られる時に投げかけられたイルカの悲しそうな視線に人間の業の深さを感じた。 他の例も同様だ。人間の身勝手な理由で虐げられてよい『自我』などあってはならない。何故なら全ての生き物が『自分』なのだから。 もしも人間が虐げられる立場になったとき、耐えられるだろうか?私には無理だ。
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