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「もう水泳、やめるから。」
あの頃の私が母にそう言っている。
母は泣いていた。
「ごめんね、ごめんね。」
ずっと謝り続ける母を置いて、私は居間を出る。
ぺたんぺたんとスリッパを鳴らしながら、私は兄の部屋へ向かった。
ぼうっとする頭で、廊下を歩く。縦に入った木目が卑しい。私を誘っているかのようで卑しい。
「話は、終わったんか。」
不意に兄が後ろから声をかける、どうやらトイレに立っていたらしい。「うん」とも「ああ」とも取れる声を出して私は兄のベッドに顔を埋めた。少しほこり臭い。勉強机にも、細かいほこりがちらちらと積もっている、誰かがこの部屋を使っていた様子は少しもない。
「水泳、やめるんか?」
「やめる、絶対やめる。」
「ほんまに、後悔しないか?絶対に、後悔しないか?」
「にいちゃんはうっさいねん!」枕を兄に投げる。枕は壁にあたりはねかえってきた。
「お前がそれでほんまにええんなら、俺はこれ以上何も言わへんよ。」
静かに微笑む兄。
先ほどの私の暴投で、ほこりが部屋中に舞っている。
「私だって、どうしたらいいのかわからんよ、わからんけど!」
「もうにいちゃんもおらへん、父ちゃんもおらへん、母ちゃんは私の痕を見る度に泣きそうな顔する!」
涙。
「…もう私は、どうしていいかわからんねん。」
兄の部屋はホコリで溢れていた。
それが益子にまぼろしを見せたのかどうかはわからない。ただ、舞い上がるホコリのそれぞれがまるで星屑のようであったのは確かだ。
兄と父、二人は死んだ。ずいぶん昔の話だ。
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