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まず最初に佐賀士族、江藤新平を中心にこの年、士族が決起して政府に反乱を起こす[佐賀の乱]を止める為、桐野と春彦は佐賀へ向かった。
江藤と上層部の人々に事情を説明したが江藤らは難色を示していた。
しかし、春彦の佐賀の乱が一ヶ月で政府軍に鎮圧される話しを聞いて江藤らは素直に決起を取り止めた。
3年後、薩摩と共に決起する約束をして江藤らと春彦らは別れた。
二人は薩摩への帰り、山口県の萩、福岡県の秋月、熊本県の神風連の人々に会い、佐賀と同じように説得して回った。
春彦の思惑はただ決起を止めるだけではなかった。
3年も時間があれば決起する人数が史実より増やす事ができると考えていた。
年が変わって明治8年春彦は次の行動に出た。
すべての薩摩士族を取り入れることだった。
薩摩は他の国とは士族の数が違う。
他国は士族が全体の5%に対して薩摩は全体の26%もいる。
その薩摩士族をすべて味方にするには国父、島津久光の力が必要である。
島津久光は藩主島津忠義の父である。
薩摩の実権は久光が握っていた。
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