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そこには、木の枝の隙から、夜闇に浮かぶ微かな月光に照らされ、草むらを掻き分けて歩く人間の姿をした、人間じゃない者が立って居た。
彼は井深しんだ。アレはなんだろう?
人か? 獣か? 気配が掴めない。
現れた不可思議な者へと探る様に目を見張るが、まるで柳に風が如く、底が掴めない程深い。
彼が見たのは、頭に尖った耳を生やし腰にもフワフワな尾を生やす。まるで日本人形の様な整った顔と黒髪で立つ、姿形は人間の女が一人であった。
只、野生の狸である彼が一歩も動くこと叶わないなど有り得ない。普通ならば怪しくなった時点で逃げ、隠れて身を隠す事が出来る。
しかしそれが許されない。
彼が若干の混乱と死の覚悟を決めた時、目の前の妖しき存在が口を開いた。
「はん、これが狸かえ? また偉く小ぢんまりしたものだて」
凛とした声が彼の鼓膜に届く。彼は声を聞いた瞬間、理解した。
ああ……、コレは『神の従者』だと。
「畏れが見えよるわ。やはり時の流れかねぇ」
女は何事か呟くと、更に続けて、
「そうだ。お前知らないかえ? この辺りに国津神住まう祠があると、蛙に聞き参じたのだが……」
狸に話しかける女。女を見て彼は、女が神の使者であると本能と五感全てで理解していた。彼は口を開き、あまり多様しない懐かしの言葉を使う。
「……西の森には……もう、……ひとり……しか、今は……居りません」
「お主、やはりまだ使えよったか、腐っても狸よのぉ! しかし一人しか居らぬとはな、この森は上から見たらそれなりに広かったぞ? さぞ力強き神なのだな」
うんうんと頷き、腕を組み首を縦に幾度か振る女。何かを理解した女は、狸に礼を述べた後草むらを掻き分け、またガサガサと夜の闇に溶け込む様に消えて行った。後から彼は気付いた。あの頭に生やした耳は、見覚えがあった。
「……しまった。あれ……は、狐……だ」
また懐かしい言葉を操り、一人嘆息した狸。彼は体を伏せ何か気になる事を考えたが、数分して彼はそこから普段の狸に戻ることにした。考える事を止め、関わりを捨てたのだ。
夜はこれから一層深い闇の中に入る。鬱蒼と茂る森の奥で、静まっていた生き物達がまた活動を始めた。彼女が遠くなったのだろうか? それは今や狸には理解する事も出来なくなったが、朝日が昇る頃、森に異変が起きた事を彼は知る事になる。
森に祟り神が現れた。
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