雫の華

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署内に戻ると、冷たい風に晒されていた肌を、暖かな空気が撫でる。その温度差に身体を慣らす間もなく高嶋は取調室へと足を向けた。途中、擦れ違った婦警にコーヒーを頼む。 取調室の扉の前に立つ頃には、背中にうっすら汗をかいており、着ていたトレンチコートを脱ぎながら扉を開いた。 その音に、簡素な机を前に座る男性がちらりと目を上げる。しかし、すぐに俯いてしまった。 そんな男性の向かいに座る刑事が、高嶋を振り返る。線が細く、背も先程の婦警の方が高いくらいで、一見では刑事とは分からない。黒縁の眼鏡が、優しそうな風貌に真面目さを加え、小学校の先生でも通用しそうだ。 そんな刑事の瞳には困惑の色が浮かんでいた。しかし高嶋の姿を認めると、それは安堵の色に変わる。そして即座に席を高嶋に譲ると、男性に高嶋を紹介し、自分は壁際に設置された机に腰を下ろしたのだった。 この刑事が、古河の言っていた芹沢だ。 その風貌通り、優しい――そう言えば聞こえは良いが、高嶋から言わせれば優柔不断で、人の意見に流され易い。警察組織にここまで向いていない人間もそうはいないのではないか。 高嶋の、芹沢直樹に対する評価は、芹沢が高嶋のいる部署に配属されてきた時から、変わっていない。 だが、自分のやるべき仕事は理解しているし、それを熟すだけの実力は持っている。その点は評価していた。 高嶋が来るまでの被疑者への対応、その後の、高嶋の補佐としての自分の役割も、勿論熟知している。だから古河も、芹沢を自分に付けたのだろう。 しかし、芹沢のあの困ったような視線と、高嶋の前に置かれた真っ白な供述書を見る限り、最初に被疑者の男性の「人を殺した」という言葉の裏付けは取れていないのは確実だった。 そして場面は、最初に戻るのだ。
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