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まるで、遥か南方の暖かな海中を漂っているようだった。
そこにいるのは私だけなのだが、何もないという寂寥感はなく、とても静かな海中で恵子の歌に耳を傾けていた。
彼女の旋律が私を優しく愛撫し包みこむ。
私と彼女の限り無い一体感。
至福の時を私は感じていた。
突然、私は上半身を巨大な手に掴まれ、夢から目を覚まされた。体をずるずると強引に引っ張られていく。
私は、夢から覚めてしまう恐怖に体を貫かれた。両の手で必死にもがいても、圧倒的な力は何も感じていないかのように引っぱり続ける。そして、光の洪水に包みこまれたとき、私の口から絶叫がほとばしった。
とある病院の一室。
穏やかな午後の日差しの中、一人の女性がベットの上で眠っている。
口元には、満ち足りた笑みが小さく浮かんでいた。
そこへ、両手に赤ん坊を抱えた初老の婦人が入ってきた。
「恵子さん、起きているの? 男の赤ちゃんよ、本当によくがんばったわね」
「ええ、お義母さん」
恵子とよばれた女性はそう言うと、ゆっくりと上半身を起こした。
「赤ちゃんを抱かせて下さい」
「はいはい。まったくあの事故さえなければ、あなたにこんなに寂しい思いをさせやしなかったのに」
老女が壊れ物をあつかうようにして孫を手わたす。
「いいえ、今はこの子がいますから」
「口元があなたにそっくり…」
「お義母さん静かに。この子眠ってますわ」
そう言って、恵子と呼ばれた女性が、ゆっくりと子守歌を歌い始めた。
明るい午後の日差しの中、おだやかな初夏の風に吹かれ、赤ん坊は気持ち良さそうに目を閉じていた。
fin
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