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『お願い、あの人を私から奪わないで。』  目の前に座っている女を見て、男は表情を青ざめていた。  二人の間を隔てている茶色のテーブルの上には母子手帳と記入済の婚姻届。  婚姻届には男の名前ではなく、男が良く知る人間の名前が記入されていた。  もちろん、筆跡は本人のもの。隣の氏名の記入欄には多分、女の名前だろう。  顔を俯かせ、両手で顔を覆いながら泣いている女に、男はどう声を掛ければいいのか、何を話せばいいのか判らなかった。  突如、男の前に現れた女によって就き付けられた現実。  昨日までは理想の中で男は生活していた。 (これはあの人の裏切りなんだ・・・・。)  ショックを受けたと同時に、信じていた気持ちが一気に崩れ去っていく。  所詮、遊びだったのだ。  本気なら目の前にある婚姻届に名前を書くことはないだろう。  頭の中がグルグルとパニック状態になっていく。  それでも、男の答えは決まっている。  泣いている女に、男は微笑を浮かべながら告げた。 『お幸せになってください。』  それしか言えない自分に苛立ち、自分の存在を抹消したいと願ったのはこの日が最初だった。
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