清福Cadenza

4/5
前へ
/15ページ
次へ
和也に初めて名前を呼ばれる。 なんて心地好い。なんて温かい。 こんなに満たされた気分はいつ以来だろうか。 とても陳腐な台詞。 恋愛モノの小説や映画で嫌というほど見た、使い古された言葉で、私が一番欲しかったもの。 他の男のそれとは一線を画す、想いの籠もった愛の言葉。 「……私なんかでいいの……? 汚れてるし、また壊れるかもしれないんだよ……?」 それまで、私のことを心から想ってくれる男なんかいなかった。 表面だけ取り繕った、単純で無意味なただの確認作業。 皆、利己的で、私は自分の欲求を満たすためだけの存在で。 私も虚妄の愛だと知りながら、ひとりぼっちが淋しくて怖くて。 所詮私たちは利用し合うだけの関係で、それ以上も以下もなく。 「その時は、俺がまた止める」 和也は違った。 暴力的な抱擁じゃなくて、目先の行為を求めているわけじゃない。 私の全てを包んでくれる。 私の全部を愛してくれる。 「汚れていようがいまいが、沙由美は沙由美だ。何も変わらない」 私の中で、何かが弾けた。 堰を切ったように涙が溢れる。 先とは比にならないくらいの量のせいで、視界が滲む。 抱きしめられているために和也の顔は見えず、でもその温もりは確かに感じられる。 なんでこんなに優しいのよ、と言おうとして嗚咽のせいで声にならない。 ――どうして。 こんなに近くにあって、私は今まで気付かなかったんだろうか。 こんなに愛されていると、今の今まで気付かなかったのだろうか。 和也と会話する度、胸に燻っていたあの不思議な感覚の正体が、今なら分かる気がした。 私は考えることを放棄して、ただ和也の身体を抱きしめる。 「和也……っ」 喉から精一杯声を振り絞った。 まるで蕩けるような響き。 「私は……」 一言がこんなにも重い。 あんなに軽々しく言っていたはずなのに、想いを編み込んだだけでこんなにも尊さが変わってしまうものなのか。 「……アンタを……」 こんな日を待っていた。 少女漫画みたいな在り来たりなストーリーに有り勝ちな恋愛。 こんな日に憧れていた。 町で歩く恋人たちのように――綺麗な恋愛をすることを。 運命が捻れて、歪む。 私を惑乱から解放してくれたのは――狂っていた私を清福で征服してくれたのは、他の誰でもない、和也の存在。 「愛してる……!」
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

264人が本棚に入れています
本棚に追加