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私がバスに乗り込んだと同時に、澱んだ空気が肺臓に到達した。
この空気は大勢の呼気で汚れていると思うと吐き気がする。
先まで肺に蓄えていた、冴えた冬の大気が、段々と肺から消えていく気がした。
「 」
突如、大きな声で名前が呼ばれ、私は声の方向を向く。
私に向かって手を振るひとりの男子生徒が視界に入った。
あれは誰だろう。
あれは何人目だっただろう。
記憶の中で何人もの顔が交錯し、混濁する。あぁわからない。
何一つ分からないまま、私は愛想笑いを返し、その男子生徒の隣に座る。窓側の座席。
バスの中は通学途中の学生で溢れていて、その喧騒は一入だった。
私の隣に座る男子生徒はそれに負けないように私の名前を呼ぶ。
うるさい。
聞こえてる。
心の中で毒づき、でも表情には微塵も出さず、私は笑顔の仮面をべっとりと張り付ける。
ぬるま湯からは出たくない。
何人も適当な関係で宙ぶらりんにして、出来損ないの愛情で相手の全てを略奪して。
そんな私が、綺麗で混じり気のない愛を得ようだなんて、やっぱり身勝手で烏滸がましい。
「 」
私は仮面を被ったままで、意味の籠もらない会話を交わす。
何と言っているのかも解らない。
興味すらも沸かなかった。
「 」
しかし、私は逐一名前を呼ばれ、その度に反応するのが面倒で、そして苛々する。
瞬間。
相手の口の動きが緩慢になった気がする。じわじわと世界がスローモーションになっていく。
「愛して――」
「私もだよ」
言い切る前に遮断する。
もう幾度も繰り返された行為。
口にされるのが怖くて、もっと綺麗な愛が欲しくて、私は遮る。
確認するだけの事務的な言葉。
身体を繋ぎ止めておくだけの、感情の籠もらない無義な言葉。
そんなの要らない。
私が本当に欲しいのは、心からの――愛の言葉なのに。
ポケットの中で、携帯電話が僅かに震動しているのに気付いた。
取り出してみると、ディスプレイには赤い灯火と共にメール受信の文字。記された名は『和也』。
『今日の放課後
教室で待っていて欲しい』
いきなりの誘いに私は少し驚き、そしてにやりと口端を上げた。
ようやく行動に移すのね。
ずっと誘っていた甲斐があった。
あぁこれで何人目だろう。
窓の外。上空には下弦の月。
運命が捻れていく。
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