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女賊
(一)
煙草屋の前を通りかかり、ふと足を停めて暫し思案、思い決まって店の暖簾を潜ると店の主が薩摩ですか?駿府ですか?と銘柄を聞いてきた。何でも良いから、高級なやつをくれと言い放ち、店に広がる草の匂いに顔を引き吊らせた。同心、石田弥平は煙草を呑まない。なのに草を所望したのは先の《達磨の甚佐》の一件で与力、立花参護に付け届けでもしておこうとの一念と、思いがけない金を手にすることが出来たいわば感謝の品である。しかしここに来て、いけない、参護の呑んでいる銘柄までは弥平も知らなかった。
「こちらの草でよろしいですか?」
試供の煙管を渡されたが、呑み方を知らない弥平がどう扱って良いか判るはずもない。贈答用だと告げると、店の主はこれを窘めた。
「煙草と言うものは人それぞれ好みの草と云うものがあるんです。銘柄一つ一つ味も香りも違うんです。お侍さんみたいに呑まない人にとっちゃあ解らないでしょうが嗜好が替わると酷く不味い物なんですよ。」
弥平にとっての煙草の認識は煎茶と同じ様な感覚であった。多少の旨い不味いは有っても飲めば煎茶は煎茶である。品や産地に拘る事は無いだろうと思っていた。主の言葉に煙草とはそういう物かと半ば呆れた感心と、どうしようかという苛立ちが弥平を困らせていた。ならば草を辞めて別なものにしようかとまた思案に悩むと、ある閃きを思いついた。
「主、立石八右衛門(たていしはちえもん)という剣客を知らないだろうか?」
すると、その立石某はこの店を贔屓にしてくれていて、草は芭慈と教えてくれた。無論、立石某とは参護が探索に使う偽名である。
参護ならず同心達も、身分を明かさず捜査する際には偽名を使う。本名が立花参護、花の代わりに石を用いたのはあまり意味はなく多分、弥平の《石田》から取ったものであろう。《八右衛門》は参護が、
「参と護(五)を足したら八だろう。」
と、笑えない冗談からつけたという。
とにかく、機転を利かせ望みの品を手にできた。弥平は抜け目がない、と云うか、悪知恵が働く、と云うか、同僚の高倉勝正に言わせれば、
「運と勘ばたらきだけで生きてきた奴。」
だそうだ。
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