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それが、こんな料亭の、番頭が、垢と泥にまみれた自分達の草鞋を解いてくれているのである。不意に恐れ多くも感じながら籠屋は次の仕事を待つ。
番頭が誰かを呼びに外に出て行ったのを見てからまだそんなに時間は経って無いだろう。足早に戻ってきては、番台に上がり帳簿を付け始めた。今年で五十を迎えた番頭は、名を冬十郎と呼び、白髪頭でも凛々しく外見も腰など曲がってない、あと何十年でも元気そうな老人である。
「八さん…急いで下さいよ。先刻からお待ちなのですよ?」
冬十郎が算盤を弾かせながら不意に語りかけた。籠屋は誰に話しかけているのか、入り口を見やると、肩に大刀を担いだ着流しの男が立っていた。全く気配を感じさせず、また、それなのに気づいた番頭も妙に感じた。
「悪い、悪い。じゃぁ行こうか。」
男は煙草入れの根付を解き冬十郎に草を入れてくれと頼むと、番台の上に置いてあった包みを手渡した。
「御中元にしては早すぎですがねぇ。弥の字もこんな事する様になったんですねぇ。」
包みを開き、そこには愛呑の芭慈の葉が綺麗に束ねられてい、男は嬉しそうに煙草入れに詰め込んだ。この男、そう、立石八右衛門こと立花参護である。ぶっきらぼうに、それでもどこか優しく笑みを浮かべ籠屋に乗り込んだ。
巣鴨に戻り着いた弥平は通りを二回、三回と往復し、件の《気になる》店を見やっていた。店は百坪あまりの広い二階建ての茶屋で、入り口には主らしき男が店先と云うのに何やら書物を読みふけってい、おそらく仕事の合間の時間潰し、そんな所であると只の人は思うだろう。しかし、火盗改メ同心、石田弥平の見解は違った。
「やはり、おかしい。」
足を留めて、店を見張る場所を探していたが、条件悪く周りのどの店に入っても死角となってしまい目を切らず見張ることは困難であった。仕方なしに、街道の端で待ち合わせを装い見張る事にした。この時点ではまだ弥平自身も疑惑に確証を持ててない。単身店に乗り込み何を探ろうにも《あて》はないのだ。
「ふうん。確かに気になる店だな。」
いつからそこにいたのか、弥平の後ろから煙を吹きかけながら参護が言い寄った。一瞬、吃驚するもこの人が現れるのはいつも神出鬼没なのだからと、そこには触れない。まして今回は弥平自ら呼び付けたのだから。
「立花さん、私が何を気になっているか解りますか?」
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