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「今日は酌だけで良いんですって。だから私も少し頂いちゃいました。久しぶりに気っ風の良い旦那でしたよ。姐さんの分の小粒を返そうとしたら、私にくれると云うんですよ。それなのに帯には手をかけないんだからこっちも楽でした。」
湯に浸かりながら外にいる女に談笑しているおしんは、やはり見た目は十九には見えない。外にいる女は、弥平が参護のために宛てがおうとしたおしずである。
「なんだ、それなら私も行けば良かったな。男の汁を舐めるのは嫌だけど、酒の汁は大好きだ。」
湯から上がったおしんは手拭いで肌の滴を拭き取ると、桜色に染まった体をそのままに縁側に現れた。腰巻きもつけず、華奢な胸が月の灯りでより一層細く見える。毛のない陰部を隠そうともせず、まるでそれが人間の美で在るが如く芸術作品の様である。火の始末を終えたおしずから肌着を投げつけられ、渋々と袖を通した。
出合茶屋は総勢十人の妓が客を待ってい、しかし営業努力は皆無であった。さらにまだ暮れ五つと云うのに店の戸板は閉まっていて、妓達は呑みに出かける者、早々と床に入る者、独り遊びに興じる者と様々である。果たして、参護の言う通り《商売っ気の無い》体が明らかであった。
一晩明けて、まだ弥平は松屋の奥部屋で惰眠を貪っている。冬十朗に起こされてもまだ昨晩の酒が抜けきれずに布団を剥ぐ事が出来ないでいた。それでも何とか体を起こし、用意してくれた冷水を一気に飲み込むと、もう外は陽も高くなっていた。冬十朗がそろそろかと図ったかの様に根深汁と芋茎の漬物を持って現れた。
「弥平さん。何時までもこの部屋を使って頂いても良いんですがね。そんな顔で御老中様にお会いになるつもりですか?これから水野様のご予約が御座いましてね。」
途端に弥平の動きが俊敏に変わる。根深汁を一気に飲み干し、芋茎の漬物を頬張るとしわくちゃになった着流しに袖を通し、帯も適当に巻いて身支度を済ませた。老中、水野斉彬は奉行所や火盗改メを統括する刑事探索部の責任者であり、将軍御側用人の中ではナンバーワンの実力者である。現代の警察で例えるなら、弥平は巡査、参護は警部、堀は署長、 そして水野は内閣府大臣と云った処である。そんな身分の違う、しかも自分の職業に関わる人と鉢合わせなど御免であると焦る弥平に、予約の時間まではあと一刻半程あると冬十朗が悪戯そうに笑いかけた。
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