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目の前に現れた男は手拭いで顔を撫で、空になった酒燗を振りながら、
「おやじ、もう二本持ってきてくれ」
と、満面の笑みで注文したのだ。男は何も言わず、酒をぐい飲みに傾けて、《ほら?まだ飲めるだろ?》と云うかの様に弥平に酌をとらさせた。ぶるぶると手を震わせながら、たまりかねた弥平がついに、
「立花さん。た…大変申し訳なく…」
この男、立花参護と呼び火盗改メの筆頭与力を勤めてい、弥平の直上司にあたる。つまり弥平はサボリの現場を証拠付きで見つかってしまったわけだ。もともと小柄な弥平がさらに小さくなってぶるぶると震え、意を覚悟し上司の怒号を今かと待っていると立花参護の口からでたのは、まさに虚をつかれたものだった。
「いぃよぉ。そりゃ呑みたくもなるわさぁ。俺もお前と同じさね。」
と、弥平の前にポンと二朱金を投げよこした。
「俺がもし、おまえの若さでお前の立場なら、間違いなく啖呵切って飛び出していたろうよ。だがぐっと堪えたお前は偉い。お役目柄、割に合わないのは金だけじゃないしな。いつ投げ出しても仕方ない。でもな?この店は無いだろうよ?」
「今日、お前は非番だ。で、それを忘れて朝方役宅に出勤しちまった。で、遅い昼飯と早い晩酌をしてた、だろ?」
参護の言葉に、
〈この人はうまい、話のわかる上司だ〉
と、さっきまで小震いしていたのを忘れて注がれた酒を一気に飲み干した。ならばとここぞとばかりに長官、堀帯刀の愚痴を並べ立てようとしたがこれを参護は鋭い視線で牽制した。
「そいつは胸にしまっとけ。俺も、お前と同じと言ったろう?」
弥平はまたその言葉に酔いを覚えながらまた心地よい気分になっていた。
酒が注文した二本を空けた頃、弥平の視線にひとりの男が飛び込んできた。でっぷりとした腹ではあるが筋肉質の体躯はまるで《小柄の相撲取り》のような男である。弥平の意識がその男に向けられると、やはりそこは火盗改メの二人である。他愛もない話をしながら参護もその男を目視できる位置に体を置き換えた。
〈盗賊か?〉
参護が視線をかえず弥平だけに聞こえる声で問うと、頷くだけで返事を返した。この場合、弥平は店を先に出てその男が出てくるのを待ち、尾行するのが通常なのだが、参護がそれを止めた。
「お前は今日非番だろ?」
悪戯そうに笑いながら、弥平の《役》を買ってでたのである。
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