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男が店を出て、品川方面に足を向けた。いつの間にかつかず離れずの距離に参護がいることを男は知る由もなく、それどころかその後ろにはさっきまで同じ蕎麦屋で酒を飲んでいた弥平が尾行している。二人とも尾行術に長けてい、十里程なら全く気付かれずに追跡できる技を持っている。参護に追いついた弥平が、
「あいつは達磨の甚佐です」
と、告げて参護を追い抜かし尾行を入れ替わった。
達磨の甚佐とは下総、松戸村の農家、商家へ押し込み強盗、いわゆる《畜生盗き》で指名手配が回った盗賊の頭である。
まだこの頃、盗めの世界では三科玉条(殺さない、女を犯さない、難儀するところからは盗らない)を粋としてこれを守る本格の盗賊が多かった。しかし、多額の費用と時間がかかるため、押し込みや皆殺しの畜生盗きが蔓延る時代に変わろうとしていた。
(二)
甚佐は品川に入ったところの置屋に草鞋を脱いだ。一足先に品川に着いた弥平は向かいの甘味茶屋に入ったが、客席には女性だけで、いつもはそんな事気にしない弥平だったが、
〈ここに立花さんと、男二人で?〉
考えるとあまりにも不自然な状況に、店の小女に身分を明かして二階を借り切った。普通、こういう店の二階は《逢い引き部屋》として使われるのだが時間もまだ早かったため他に客はいなく、その事は弥平を一安心させた。襖隔ててあの声を聞かされてはたまったものではない。弥平は無類の女好きで谷中のいろは茶屋では指名換えのやりすぎで出入り禁止になった程である。
軒先にかけた目印の手拭いを見て参護が一時躊躇しながら店に入ってきた。小走りに二階に駆け上がると、善哉を啜りながらいたやの二階を見張る弥平がいた。
「隣の蕎麦屋じゃ駄目なのか?」
「蕎麦はさっき食べたでしょう?」
半笑いで舌打ちも混ぜながら諦めて腰を下ろした。
「来る途中に、佐嶋と小泉に来るように伝えておいた。到着したら小泉とお前は客を装っていたやに入れ。くれぐれも女は買うなよ?」
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