8 ツバキとアヤメ

3/12
前へ
/280ページ
次へ
 彼女――アヤメの日常は、扉を叩くことから始まる。  アヤメの暮らす屋敷の中で、その扉だけが異質で、他のどの扉よりも分厚く、暗く重い。人ひとりがようやく体を滑り込ませられるくらいの大きさで、床に水平に設置されている。  扉を開けば、地下に降りる階段があることをアヤメは知っていた。だけど、アヤメは自分の手でその扉を開いたことが一度もなかった。  階段を下りた先には部屋があるのだと聞く。もちろん、階段を下りたことのないアヤメには、その部屋がどのようになっているのか知りようがない。 (──知りたくもない)  冷たい床に膝を着いて扉をノックしようとして、アヤメの手が止まった。  いつも躊躇う。扉の前でしばらく体が動かなくなる。  怖い。  もし返事が返ってこなかったら?  確かめるのが怖い。  もし。  もしも、ツバキが逃げてしまっていたら。  彼女の身代わりに生け贄になるのは、自分──アヤメ──なのだから。  でも、姉の在室を確かめる瞬間の不安は、確かめないでいる時間の長さと恐怖に比べたら、小さなもの。 (大丈夫よ、昨日はちゃんと返事が返ってきた)  そう自分に言い聞かせ、アヤメは今日も、その扉を静かに叩く。  乾いた木の音が、コン、コン、と響いた。  アヤメは引き攣るような渇きを覚えた喉を潤そうと、意図的に唾を飲み込むように試みる。だが、うまくいかない。それで、声がかすれてしまう。 「ツバキ……私よ……」  しばらくして、扉の向こう側からコンコンと返事が返ってきて、アヤメはホッと息を漏らした。
/280ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6347人が本棚に入れています
本棚に追加