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(ああ……)
涙が出そうになる。
この瞬間が、いつも幸せだった。
この瞬間だけ、安心できた。
その気持ちを心の奥底に必死に閉じ込め、アヤメは扉の向こうに居る姉に労いの言葉をかける。
「大丈夫……?」
声をかけるだけで、アヤメがその扉の取っ手を握ることはない。毎朝、毎朝、彼女はただその扉を叩くだけだった。
アヤメはその扉が怖くて、それ以上それに触れられなかった。
自分ではないのに、その扉の中にいる自分と同じ顔のツバキが、鏡の中の自分の姿であるような錯覚にとらわれるからだ。
生け贄になるのは、私じゃない。
私じゃないのよ、ツバキなの。
そう自分に言い聞かせていないと、頭がおかしくなってしまいそうだった。
「姉さん」
アヤメは、はっと我に返って、声のする方を見た。取り繕う余裕もなく振り返った自分の顔は、きっと真っ青だったに違いない。
だが、十歳にも満たない弟は、アヤメの顔色の悪さに気付いていないようだった。
「おはよう、姉さん」
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