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アヤメが振り返った時には、直久の姿はすでになかった。まるで、壁や天井をすり抜けたかのように、消えていた。
しかし、直久のことにかまっている余裕はない。アヤメは、ツバキの着替えを手伝うことに専念する。
「でも、まって!」
ツバキは自分の白い着物に手を通しながら、アヤメを止めた。
「やっぱりダメよ。儀式は明日ですもの。私が居なくて儀式ができなかったお父様が悲しむわ。私はここに残る。アヤメは直ちゃんと雪を見てきて、ね?」
「大丈夫よ。心配いらないわ」
「ううん。私は明日の儀式を成功させて、神さまのお嫁さんになるのよ。お父様はそれだけを楽しみに私を育ててくださったわ。私もお父様の喜ぶ顔が見たいの。だから、行けない」
楽しみに育てた?
娘が死ぬことを?
十六歳になった娘を殺すことを?
「……」
アヤメは駄々っ子のようなツバキをまっすぐ見つめた。
いつの間にか清次郎との約束の時間は過ぎてしまっていた。このままでは、心配になった清次郎が様子を見に、ここへ現れるのは時間の問題だろう。それでは、何もかもおしまいだ。
清次郎が、ツバキだけを連れて逃げ、置き去りにされた自分がツバキの代りに生け贄にされてしまうのは、子供でも考え付くこと。
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