10 寒椿

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 彼が行ってしまう。  アヤメはすかさず彼の背中に声をかける。けれど、彼の足はまた一歩前に出された。 「お願い……行かないで……」  もう彼が振り返ることはない。そう確信した。もう、どうすることもできないのだと。  私では、あの人を止めることすらできない。 「いやぁ……」  いくら懇願しても、清次郎の足は屋敷の方へと進んでいく。  ツバキの元へと。一歩、一歩。  後から後から流れおちる涙が、止められないのと一緒。   もう手が届かない。  自分のものにはならない。永遠に。  自分が欲しいのは、あの人だけなのに……。  あの人の腕の中にいられるなら、どんなことだってしたのに……。 「清……次郎……さま……」    お願い、私の前からいなくならないで。  こっちを向いて。もう一度だけ、最後に一度だけ、私を……アヤメを見て。 「ツバキなら……屋敷にはいないわ……」  消え入りそうな声で、なんとかアヤメは言った。   とたんに、清次郎の足が止まる。振り返った彼の瞳の中にアヤメがいた。
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