殺意を抱いただけの彼

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泣きながら、女は包丁を振りかざす。鈍く光る銀、こんなのに人や牛や野菜達は切られていくのか。 俺はぼーっとその切っ先を見ていた。体も頭も自分の物かと疑いたくなるくらい動かない。 女が包丁を振りかざしてから勢い良く下ろすまでの刹那。 もしこの時、俺から防衛本能と興奮がきれいさっぱり抜き取られていたら気付いただろう。 刃の切っ先さえ自分に当たることは無いのを。 ずぶ、と包丁の三分の一以上がTシャツを貫通して彼女の腹に呑み込まれた。刃に邪魔されて出る血の量は少ない。 小学生が転んだ時に作る傷の出血と比べなければの話だが。 あああ、と喉から出た高くか細い声。それが彼女なりの気合いだったのか、腹に埋まっている包丁をずぷずぷと下に移動させて行く。 無論、腹に空いている細長い穴は、少しずつ広がっていった。 昔誰かから人は自分を傷付ける時は死なない程度に手加減すると聞いたことがあったのに。この女がおかしいのだろうか。 どばっと血が噴き出した。俺の顔が朱に染まる。 生臭さに吐きそうになるが、眼前の光景が恐ろし過ぎて嘔気が引っ込む。 女の顔がみるみる蒼白になっていく。顎から落ちた大粒の汗が、バケツの水をひっくり返したような大量の血液に交じった。 嗚呼、乏血性ショック。 女が前のめりになって倒れる。上手く俺に覆い被さった。 女が落とした包丁は俺の脹ら脛に小さな切傷を作った。不思議とこの時は痛みを感じなかった。 俺の胸板の上で女は痙攣していた。何故か俺は彼女の背中に腕を回す。強く抱き締める。 ふと、違和感を感じて俺は自分と肉塊になりかけてる女の間を覗いた。 血塗れの小さな腕が、そこにあった。 きっと包丁が肉を抉る様に切ったんだ。 嗚呼、知らなかったぞ。俺は知らなかった。こんなことになるのも。女の腹の中に何かが居たのも。 二人分の肉塊に、放心状態になる。何をすれば良いのか解らない。 力なく投げ出した足の小さな傷が、ジンジンと俺を咎めるように痛んだ。
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