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『今日より名を猫とせよ』
それは命令であり始まりだった。
――――
「また、このようなところで寝ておったのか?」
「はい……姫君」
少女でありながらも妙な色香をもつ椿はこの城において、そして猫にとっても絶対的支配者に価する。
椿は同じ名をもつ白い花弁に戯れながら任から戻ったばかりの猫にそう問うた。
そうして、バサリと猫に己の打ち掛けをよこした。
「着よ。血生臭い……」
そう言いながらも椿は花弁を弄ぶてを休めず猫の頬に未だ残る切り傷を辿る。
追っ手から逃げる途中につけられたそれは血さえ止まりはしても生々しくそこにあった。
緑の満ち満ちた庭園に不釣り合いなそれに誰も咎めはしない。
猫の首筋に手を添え、椿はそれを清める。
「そなたが為でない……主が為じゃ。あの方は美しいものを好むでな……」
「承知の上でございます」
「なら参るぞ。わかっておるな?」
猫の手足、着物についた泥や血をみやり、椿は目を細める。
そうしてから白き花弁が降りまかれた。
「私もそなたもいつぞ飽きられるやら……」
溜め息を交えたそれは猫の心に深く落ちていった。
――――
かのあがめたる主は、美しいものが好きだ。
そして何よりも珍しきものをぞ寵愛する。
椿はその主の側室のうち、一番の寵愛をうけている。
それは、見目麗しきだけでなく、清めの力を身にひそめたる由縁にだ。
元は遊女であった椿を見初めた主は椿に名を与え、側室としての絢爛を与えた。
椿の口付けた傷痕はみるみるふさがり、清めを施す。
椿はただ、与えるすべを持つ主に従服する。
金蘭の舞う打ち掛けを纏い、庶民でも武家でも揃わぬ豪奢な調度品に心を寄せる。
椿はそれだけでよかった。
愛などということははなから必要ではない
とうに棄ててきたそれにすがるにはあまりにも遅すぎた。
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