6月の雨

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  「…………」 木下さんは俺に気付いていないのか、ただ無言で自らの両手を見つめた。その瞳は荒んでいて無心のように見える。 纏っている雰囲気は、まるで幽霊のように儚い。 「木下……さん?」 あまりの変貌に、ついたずねてしまった。 木下さんは光のなくなった瞳でこちらを観察するように見て、やがて紅い口を歪ませた。 「何言ってるの?」 「? 何って、木下さんの様子がおかしいから。頭、打ったろ?」 「木下さんって、どっち?」 「……?」 俺のまばたきと呼びかけを合図に、木下さん? は、嘲笑と呼べる甲高い笑い声を上げた。 「あははっあははははっ。あははははははははははは」 たいそうおかしそうに、まるで人を馬鹿にするような笑い。木下さんはこんな笑い方を知らないだろう。それなのに。 「……やっと手に入った。……もう陽子にはかえさない」 木下さんは、喜劇だと言わんばかりに、席を立ち、鞄を手にとって教室から出ていこうとする。 ヤバい。 俺の本能が告げる。今のこの女の子は木下さんじゃない。今さっきなんて言った? 陽子にはかえさない? 何を? 陽子は自分の名前のはずなのに、何故か最も憎む相手に向けるような台詞だ。 姿は木下陽子さんなのに、中身は木下陽子さんじゃない。 その考えは化学や世間的にいえば有り得ないことだが、感じたことさえない木下さんの雰囲気は、それさえも超越したことのように思える。  
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