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「あっ、はい。大したことではありませんが、その本――」
沙織の鞄を指さして、男はそう答えた。鞄から顔を覗かせた一冊の文庫本。沙織は読書、殊に推理小説を好むことから、どこへ行くにも文庫本を持ち歩く。本のタイトルは『鉄壁のマジシャン』だったはず。
「僕も先日、借りて読んだものでして。だから何なんだと言われれば、それまでですが」
男は、照れ隠しに右頬を掻いた。沙織の中に眠る、研ぎ澄まされた得体の知れない何かが、ざわざわと蠢(うごめ)いていた。
「この世に、完全犯罪というものは無い。これは一般論であって、完全犯罪の究極型は犯人が捕まらないこと。つまり……」
「つまり、犯人が亡くなってしまえばいいのよね」
「そう、それです」
沙織は咄嗟に、口を挟んでしまった。同じミステリー愛好家に出会えた喜び。そして、この男に対する好奇心が後押ししていた。
「そこまでは、ありふれたことのようでもある。しかし作者は、さらなる究極型を見つけた」
「二重螺旋完全犯罪ね。完全犯罪を実行した犯人を自殺に見せかけて殺害する」
二重螺旋完全犯罪とは、今まさに沙織が手にしている文庫本の作者が、作中で唱えた造語である。沙織はいつになく興奮していた。
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