第一章(上)

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  「でも、それだけでは足りないようにも感じた。沙織さんはどう思います?」   「そうですね、足りないと言えば足りな……ん」   「足りなん?」    男はにこにこと微笑みかけてくる。しかし、沙織は身の危険をさえ感じていた。  今、この男、確かに「沙織さん」と言った。どうして名前を知っているのだろう。沙織は不審に感じながらも、男の様子を観察した。   「あの、どうして沙織って」   「ああ、すみません、いきなり名前で呼んでしまって」   「いや、そういうことではなくて。どうしてわたしの名前を御存知なのでしょうか」    男は別段、驚いた様子もなく、満面の笑みでこう答えた。   「ミステリー?」    沙織はこの場から、全力で逃げ去ろうかと思った。この男はきっと、ストーカーか何かで、わたしのすべてを知り尽くしているに違いない。  沙織が身構えた途端、男は笑って彼女の首もとを指さした。   「嘘々、マフラーですよ」    沙織のマフラーには、刺繍で小さく「Saori」と縫われている。男はそれを見て、沙織の名前を知ったのだ。そもそも、自慢できるほどの美貌も無い彼女を、ストーカーするような男はいない。  沙織は少し安心したと同時に、妙な気分になった。  
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