A Hound

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  「まさか、ないのか」  ぞっとするくらい低い声で、ボスが言った。怪物は既にハウンドの心臓を鷲掴みにしている。その鋭い鉤爪が深く食い込まないとは、ボスの表情を見る限り、言い切れそうもなかった。  ポケットに入れたままの掌はひどく汗ばんでいるのに、唇は異常に乾燥している。加えて、言葉の発し方、さらにはまともな呼吸の仕方さえ、今のハウンドは忘れかけていた。 「……よし、ハウンド。今から、おれがお前にどう命令したか言ってみろ」  こう問うてくるボスの背後に、怒りの種火が燃えるのを見た。「例のもの」がないと分かってしまった以上、何を言っても、あの種火に油をかけることになるだろう。しかし、ハウンドは答えるほかなかった。 「……相手組織に潜入し」 「潜入し」  ハウンドの後に続けて、ボスが復唱する。 「ターゲットを殺害し」 「殺害し」 「『例のもの』を、奪取する」 「奪取する――そうだ!」  突然、ボスが両手でデスクを激しく叩いて立ち上がった。ハウンドがひるむ間もなく、ボスはその胸倉をぐいと引き寄せる。 「よく聞け、ハウンド――そう、『ハウンド』! 『猟犬』だ! お前は猟犬なんだ! ターゲットを探して、殺す――だがな、それだけならただの猟犬にだってできる。しかし主人の望むように獲物の毛皮を剥いで持ってくる犬がいるか? いや、いない! だから、おれはお前を使ったんだ――ハウンド!」  ボスは完全にいきり立っていた。端正な貌を憤怒に歪め、唾を飛ばしながら怒鳴り散らす。 「ああ、まったく残念だ! 飼い主の手に負えないペットは、保健所に引き取って貰わなきゃあならないからなァ」  目鼻の先に迫った怒りの形相がやがて悪魔のような笑みに変わったとき、ハウンドの頭からは一気に血の気が引いた。「保健所」というボスの台詞は、つまり究極の終着点を意味していたからだ。 「なァに、心配することはない。たった一秒で、最高に安らかな眠りにつける」  ハウンドの耳元へ口を寄せ、ねっとりと囁く。毒蛇が背筋を這うような戦慄を誘う響きだった。 「……それだけは」 「なんだ。こんな失態を演じておいて、許しを請うつもりか?」  ボスの声に温度はない。ハウンドは総毛立ち、最後まで言葉を続けられなかった。  
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