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「・・・ぼうや。
私はこのまま君に、ついてはあげられない。
私はもう、行かなくてはならないのだよ」
コートのポケットに入った記憶の欠片を握り締めながら、老人は言った。
それでも子どもはただ黙って、老人を見つめ続けた。
しかし先程老人が示したバス停に、一台のバスが向かって来ているのを確認すると、子どもは老人の腕を引っ張った。
老人は、そんな子どもをなだめるように、言葉をかけ続ける。
「君は一人でも大丈夫だ。
それに私は君が何処に住んでいるのかも知らない。
君の道案内にさえ、なれないのだよ」
しかし老人が何を言おうと、子どもはただ老人を見つめたまま、彼を精一杯の力で引っ張り続けた。
その青い目は必死で、零れ落ちるしずくを拭おうともせず、代わりに、ただただ消え入りそうな声で、老人に言葉を投げかけた。
「一緒にいて」
これが最後の旅となるはずだった。
夢追い人の衣をまとった老人の最後の意地も、今回でもう、全てが終わるはずだった。
しかし、今の彼はもはや、始まりの列車に乗ることさえも、ままならないのだった。
自分でも分かっていた。ある時からそれは、言葉を探す旅でさえも、なくなっていたのに。
記憶の中に、夢の中に逃げ込んで、そこで生きるしか、なかったのだ。
或いは、万が一にもその言葉を見つけて、それでも今の自分に何が出来る。何が残るのだ。そうだろう?年老いた老人よ。
ああ、何ということか。
既に私は、この小さな子どもの一言に打ち勝てる程の言葉も、失ってしまっていたのではないか。
海辺に通る、長い線路に目をやりながら、老人は子どもに優しく言った。
「用事は無くなったようだ。
そんなに急がずとも、次のバスまで待って、ゆっくり、一緒に行こう」
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