第二十六章 玉匣

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「あら、ご機嫌よう多賀さん。 貴方も招待されていたのね?  いらっしゃるのなら、早く声を掛けて下されば良かったのに」 「いや、僕ぁ殿の付添でね。ずっと別室で待機してたのさ。 しかし綾乃さん、素晴らしい支那服だなあ。よくお似合いだ。上海や大連のダンスホールでだって注目の的になれるぜ、絶対。今度ご案内しますよ」 右目を白い眼帯で覆った中高の顔の快男児の装いは、尋常の三つ揃い。 まるで邸内の警邏(けいら)にあたる私服警官の様な招待客とも思えぬ衣装を訝りながら斯く尋ねると、多賀さんは舞踏室の奥へと視線を向ける。 彼の眼差しの先には、壁際に一人佇む燕尾服の青年の姿。 〝研究会〟所属の貴族院議員、靍見忠淳(つるみただあつ)子爵である。 癖毛の長髪に白皙の細面をもつ詩人風の美男子ながら、彼自身は詩文にはまるで無縁の人物だった。   子爵の夢見る様な三白眼の内に、人は未だ(したた)められぬ幽遠なる叙情詩を読み取ったけれど、その実子爵は一切の思惟も情動も抛擲し海月の如く現し世を漂流しているに過ぎなかったのである。 詩を紡ぐのは何時も彼の美貌の礼賛者の仕事で、詩才も詩心も欠落した子爵自身は忠実な家来達が頓珍漢な献呈詩に才を競う様を、檻の中で滑車を回す鼠同然に眺めていた。 虚ろな心を内に秘めた涼やかな微笑は、長袖者に相応しい冷酷にして怠惰な心性の証に他ならない。  「有難う。けれど、折角誂えた支那服も夜の錦だわ。多賀さんもEscapeかしら?」 隻眼の大陸浪人の丁稚どんめいた愛嬌が、胸に澱む憂鬱を少しずつ癒してゆく。 彼の愉快な冗句と目眩(めくるめ)く(法螺交じりの)大陸漫遊記に暫く耳を傾けていたい。 きっと彼となら、私の心は自由の海域へと辿り着ける筈。 悪徳に塗れた無頼漢。 一期(いちご)を夢と観じた狂者にして、満洲に天下草創の理想を描く大望を秘めた夢追い人。 そんな彼ならば。 〝宜しければ、ご一緒しませんこと?〟 私は、斯く共犯に誘ったけれど─ 「いいや。Escapeじゃないんだ。僕は綾乃さんを探してたのさ。どうしても、綾乃さんにお願いしたいことがあってね。聞いてくれるかい?」 次の刹那、多賀さんの応えが私を導いた先は深い失望の淵。 あろうことか、彼もまたの為に私の前に参じたのだという。 多賀輝次郎─狂い咲きの浪漫主義者と見えた彼も畢竟(ひっきょう)、霧立ちこめる暗礁(メランコリア)へ私を(いまし)めんとする卑俗な跪拝者の一人に過ぎなかったというのかしら? 私は輝かしい偶像としか映ってはいなかったというのだろうか。 友と信じた彼の瞳の中に於いても。 
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