第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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「あ、うん。まあ、何時も望遠鏡ばっかり覗き込んでた奴が言うんだから、そうなんだよね」 瞋恚(しんい)に駆られた清姫が火を吹く様な勢いで畳み掛けるセリーヌの気勢に圧倒されたジュスティーヌは反駁も能わず、只こくこくと頷くばかりであった。 「とても、綺麗な、月の地図も書いて、た、よね。いろんな、名前を教えて、貰ったね」 血走り兎の如く朱に染まった隻眼を見開きジュスティーヌに詰め寄るセリーヌの袖を引き、エロイーズは思い出話を俎上に載せる。 「ええ!ええ!懐かしいですわ。月面図を広げての卓上旅行。エロイーズ、貴女もよく覚えておいででしょう御姉様が描き続けた月面図を。ふふふふ、貴女もジュスティーヌも盛んに質問をしましたね。そのたびディアーヌ姉様は面倒臭げな溜め息をつかれたものでした。けれども一度月の地理を講じ始めたらみるみる頬には情熱の紅葉が散って・・・ああ、あれは昨日のことのよう。月の海や湖沼や山々。私達の想像力は天馬の様に飛翔し遥けき不可視の地平を巡りましたね。御姉様が仰有るには半世紀もせずにわたくしたちは月に辿り着けるそうですからその時にはこんな遊びを懐かしく思い返すことでしょう」 今にも親友に掴み掛からんばかりの勢いの黒衣の淑女の意識を反らすべく中空に投じた好餌は、エロイーズの目論見どおり刹那にして狂信の麗人を食らい付かせる成行となった。 豊饒の海、静かの海、賢者の海、危難の海、氷の海、島の海、雨の海、蛇の海、既知の海。悲しみの湖、冬の湖、恐怖の湖、荒野の湖、時の湖、死の湖、夢の湖、忘却の湖。愛の入江、露の入江、虹の入江・・・ そして彼女が雑音交じりのざらついた声でoratio(おらしょ)の如く紡ぎ上げたのは天上の海の雅名の数々。 〝こんばんは。塩竃寺の曲木(まがき)です。おおい叢神さん、叢神さんは居ますか。しかし妙な光景だな。こりゃ七不思議狸囃子じゃあるまいね〟 それから夏の湖秋の湖病の沼に湿りの海。そうそう月には島や大陸も御座いますのよ、とセリーヌが語るのを遮り廃園中に響き渡ったのは営庭の喇叭の如くに冴え渡る女人の大音声(だいおんじょう)。 見れば夜風を孕んだ法衣を颯爽と靡かせ天幕へと大股で歩を進める年若い尼僧の姿があった。 彼女こそは今宵の法会の導師─塩竃寺の庵主、曲木青嵐(まがきせいらん)である。
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