第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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「〝月に一番近いところで法会を〟というのが故人のたっての希望なのよ。そうでなくては月に還れないのですって。あの涸れた海の広がる渺茫(びょうぼう)たる死の都には。 それに、此処は貴女にも相応しい場所だと思うわ。 〝夜極浦の波に宿すれば青嵐吹いて皓月冷じ〟融大臣(とおるのおとど)の様に塩竈へと想いを馳せるにはお誂え向きでしょう?」 「季違(きちが)いですよ、綾乃さん? 今は秋のもなか。あたしの名前は夏の季語。夏の雲水奇行多し、ってね。あはは、こりゃ宗門が違うか。 でも失礼だなあ、塩竈はとても綺麗な港町ですよ。皆にも見せてあげたいな。再建したお寺と一緒に。 ・・・いやいや、それは兎も角。月に還れないとか月に一番近いとか訳が分かりませんよ。疑問を増やすのはやめてくださいってば。故人の御希望だっていうのは理解しましたけど」 大笑したかと思えば渋面を拵え、と私に(いら)える僅かな間に青嵐尼は愉快な百面相を演じてみせる。万事粗野なるも名にし負う初夏の風に似つかわしい爽やかな言行は、矢張り快い。 「ら、ラン、ちゃん・・・さん? 故人の、ディアーヌは、月が、だいすき、だったの」 「ずっと望遠鏡に張り付いて、取り憑かれたみたいに妙な計算に明け暮れててさ。口を開けば月に行きたいとか何とか。だから、そんなに月が素敵な所なのかって聞いてみたら〝そうです。何にも無い、綺麗な死の世界です〟って。あたしらだって訳が分からないのさ」 眉間に皺を寄せ、河童のように口を尖らせつつ首を傾げる青嵐尼に故人〝つきぐるいのディアーヌ〟の性状を補注せんと試みたのはエロイーズとディアーヌだ。 如何にも()ず怖ずといった調子でありながらエロイーズ嬢が一番槍に踊り出したのは、彼女が儚げな容姿の内に誰よりも大胆な気性を秘めることの証左に他ならない。 ※夜極浦の波に~:夜極浦(よるきょくほ)の波に宿すれば青嵐吹いて皓月冷(こうげつすさま)じ。 出典は和漢朗詠集に収録される漢詩。 〝人里離れた海辺に泊まると、風が吹きわたり月の光も荒涼として見える〟という意味。 融大臣:平安時代初期の貴族、源融のこと。嵯峨天皇の皇子として生まれ、左大臣となった。彼の邸宅〝河原院〟には陸奥国・塩竈の景色を模した庭園が造られたという。 季違い:青嵐は夏の季語にあたるため。青嵐尼は自身の法名を〝青葉の頃に吹く風〟の意として受け止めている。 夏の雲水~:〝夏雲奇峰多し〟のもじり。 夏の入道雲を、不思議な形の山の峰に例えている。 陶淵明の漢詩にちなみ、禅語などとして愛されるフレーズ。なお、一般的に雲水とは禅宗の修行僧なので、禅宗の尼僧ではない青嵐尼は〝宗門が違う〟と発言したのである。
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