第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

23/66
前へ
/1264ページ
次へ
「いつも、ディアーヌが話すのは、不思議なこと、ばかり・・・なん、です。まるで、お告げ、みたいに」 頷きながらも胡乱げな面持ちの青嵐尼にエロイーズは、辿々しい口調の所為で台無しの声帯模写(こわいろ)を用いて在りし日の月天の巫女の託宣を再現してみせた。  本当です。月は全くの死の世界です。 月宮殿も、大きな桂もありません。奇怪な月人も居ませんし、可愛い兎も蛙も・・・気持ち悪い。蛙なんて口にしただけで寒気がします。 でも、セリーヌ。きみは私と違って立派な仏蘭西女になれますよ。このあいだも涼しい顔で蛙料理を平らげたんですから。私、きみのこと騒がしくて苦手ですが、遠巻きに観察するのは好きですよ。 兎も角、月には何にもありません。神さえ居ない清らかな死の沙漠。それが月です。 海?  ああ、海といっても水は無いんですよ。あれは、干上がった窪地です。 豊饒の海、静かの海、賢者の海、危難の海、氷の海、島の海、雨の海、蛇の海、既知の海。 昔の人が夢見た麗しき天上の海原は全て虚ろな影に過ぎません。ジュスティーヌ、独逸(ドイツ)贔屓のきみはまさか〝宇宙氷説〟なんて信じちゃいませんよね? 〝月の氷にをしぞ立つなる〟なんて言いますが、月の氷というのは文学上の表現に留めておくことです。まあ、確かに悪くない心象(イメージ)だとは思いますけど、私も。 老いも憂いも無い、無垢なる死の地平。 だからこそ、私は還りたいと思うんです、月に。 愛も無く、歓喜も無く、失望も無く、憎しみも無く・・・一切の煩わしい感情から自由になれるというのなら。 きみだって、幻滅の悲哀に苦しむのは厭でしょう、エロイーズ? 不可ない。感傷的になりすぎました。 月迄の距離は三十九万(キロメートル)。 でも、地球から毎年約三(センチメートル)ずつ遠ざかっています。 見てみますか?私の計算。 まあ、月迄の距離を計ったり、机上で月世界旅行に空想を羽ばたかせたりしてみたところで、月に近づける訳ではありませんが。 ・・・徒な熱情って、とても煩わしくて嫌いです。 計算に明け暮れれば、凪に辿り着けると思ったのにな。月のわだつみの。
/1264ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4250人が本棚に入れています
本棚に追加