第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

24/66
前へ
/1264ページ
次へ
「って、まあ、こんな調子でさ。とっても変な奴なんだ。ディアーヌってのは」 「ジュスティーヌ。貴女少し口が過ぎましてよ。御姉様の智慧に、わたくし達の頭脳が及びも付かないだけですわ。貴女達には理解できまして?御姉様の計算式の一つでも」 「へえ、成程。ディアーヌさんは本当に優れた頭脳の持ち主だったんだね。月の巫女の面目躍如って訳だ。勢至菩薩は叡知を司る仏様だからね」 まるで壊れた自動人形の歌の様な訥々(とつとつ)とした声色遣を終えたエロイーズは顔を酸漿(ほおずき)のように紅潮させ、ぜいぜいと息を切らしている。 そんな彼女の背中を擦り介抱しあうジュスティーヌとセリーヌの間に諍いの気配を嗅ぎ取った青嵐尼は直ぐ様快活な相槌を以て両人の会話を遮った。 「ああら・・・導師様まで神憑りの様な事を仰有いますのねぇ。本当に〝天使語〟の使い手ばかりで頭が痛くなりますこと。早くどなたか通訳して下さらない? ほぉら、御覧なさいまし。エロイーズまで眼を白黒させ始めましたわ。あの子の小さな脳味噌まで焼けついてしまいそうですわねぇ。可哀想ですこと」 気怠げに紫煙を燻らすマリアンヌは(いとけな)き妹らの暴発を防ぐ方便とも無思慮の所産ともつかぬ放言でお気に入りの青嵐尼をも(もだ)さしめ、満座に静謐をもたらす。 娼館Figaroの女王マリアンヌ嬢は酒浸りの歌姫の様な遊堕な心性の持ち主で、天才的な頭脳を持つ訳でもなければ高貴な所作を身に付けている訳でもなかったけれども、彼女の蜜の様な猫撫で声には聖女の預言にも似た抗い難い霊妙なる威厳が備わっていたのだ。 〝どなたか〟とは言い条、マリアンヌのどろりとした瞳は他でもなく私を見詰めている。 そればかりか、彼女の一瞥は高らかに響き渡る〝Ecce homo(この人を見よ)!〟の下知に勝る効験を以て諸人の眼差しの矢を私に収斂させた。 マリアンヌ、ジュスティーヌ、セリーヌ、エロイーズ、青嵐尼、そして馨の(ブルータスになった心地は如何かしら?)視線の網に絡め取られた私は、彼女の仕立てた脚本通りの役回りを演ずる事を余儀無くされたのであった。 「月の神様は智慧を司る勢至菩薩の化身だと言われているのよ。月から舞い降りた〝羽衣〟の天女も〝南無帰命月天使、本地大勢至〟と唱えているわね。 ・・・さあ、青嵐さん。いいえ、導師様。そろそろお経を。重力に縛められた御霊も、きっと御法(みのり)の羽衣を待ち焦がれていますわ」 本当は青嵐尼の号令を以て法要の幕開けとする積もりだったけれど、彼女が止む気色もない駒鳥たちの囀りの嵐を逸する為には法主(ほうしゅ)の助け舟が必要と判じたのだ。 能弁なれど若く真っ直ぐな気性の持ち主の青嵐尼は、難局を逸する巧緻な社交術を未だ会得してはいなかったのである。 ※解説は次頁。
/1264ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4250人が本棚に入れています
本棚に追加