第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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「御免ね。残念ながら、セリーヌさんの浪漫主義に(かな)うものじゃあなさそうだ。 ・・・これは〝絵心経〟つまり般若心経の判じ絵。文盲でも般若心経が読めるように、と旧幕時代の南部地方で考案されたものなんだよ。 難解な漢字だらけのお経を眺めるより、ずっと目に優しくて一寸(ちょっと)楽しいと思ってね。手作りしてみたんだ」 隻眼の淑女の唇が紡ぐ突飛で奇怪な空想を咎めることも嘲ることもなく、曲木青嵐は尼僧に相応しい慈しみ深い微笑みと共に説き諭す。 「まあ、手作り。器用でいらっしゃいますのねぇ。助かったわねえ、ジュスティーヌ? これならあたくし達でも・・・あら、厭だ。これはこれで中々に難読ですわね。あたくし、頭が固くってよ。これでも店では一番の真面目ですもので」 煙草の()みすぎで頭に紫煙の靄が掛かったマリアンヌの君は引札もとい〝絵心経を〟両手でぐるぐると回して眺めながら眉間に皺を寄せて溜息を溢してみせた。 「般若、心経・・・良かっ、た。わたし、てっきり、深淵に眠れる邪神、を、呼び覚ます、魔術書か、なにか、かな、って。古、代文明の」 「ランちゃん、真に受けないでね。 仕様が無いさ酒精(アルコール)漬けの脳味噌じゃ。白状しなよ。今だって宿酔(ふつかよい)だろ、マリアンヌ? エロイーズ。あんたの趣味の悪さはセリーヌ以上だってマダムも頭を抱えてたよ。怪奇趣味も程々にしときな。 ・・・でもさ。あたしが導師様と一緒にお経なんて唱えて良いのかな。折角の有難味を損ないやしないかい?」 怠惰な性向と酒浸りの生活を棚に上げて〝真面目が肝心〟と(うそぶ)くマリアンヌと、狂信女セリーヌ裸足の何やら名状し難いおぞましく冒涜的な妄想を開陳してみせたエロイーズを窘めたジュスティーヌは、青嵐尼に斯く問うた。 蓮葉な言動と荒っぽい所作に似合わずジュスティーヌは道徳に口喧(くちやかま)しく、宗教に対して恭謙な少女なのである。 ・・・やっぱり、彼女には割烹着や襷がお似合いだわ。〝良識〟の世界に属すると自認するブウルジョワの婦人の誰よりも〝良識〟が彼女の揺るがぬ心の軸となっているのですもの。 「何言ってんだか! 変な遠慮は要らないんだよ。 もしも、経文の一節でも唱えてあげたら、それは世界中の宝物を集めて御供えする百倍、千億倍も素晴らしい善行なんだから。 もっと胸を張りなよ。友達の為に法要を催してあげようだなんて、ジュスティーヌさん達の心ばえはとても尊いものなんだから。あたしだって真似できないよ」 青嵐尼は日焼けした顔を莞爾(かんじ)とさせるや、己が身を卑しむジュスティーヌの背を力強く叩いて高らかなる激賞を献じる。 ・・・けれど、躊躇いを打ち砕く(しょ)として繰り出された張り手を突如背中に浴びたジュスティーヌは、酷く咳き込み感謝どころか恨み言を述べる事すら能わなかったのであった。 ※解説は次頁。
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