4250人が本棚に入れています
本棚に追加
咳が収まるや真蛇の形相で詰め寄ったジュスティーヌに平謝りに徹する青嵐尼の姿は、宛ら母御前に叱られる悪戯小僧の様であった。
血潮の沸騰で猩々緋に顔の染まった彼の女天狗は〝加減ってものがあるだろ、このお馬鹿!法事で死人だなんて洒落にならないよ!〟などと尼僧を相手に臆することもなく大喝を見舞う。
「・・・御免ね。大変お待たせしました。これより法要を始めましょう。皆、絵心経を持って外に行こう。さあ、あたしに着いてきて。綾乃さんと馨さんも御一緒に」
〝以上!〟の宣言で少女娼婦の雷霆から漸く解放された青嵐尼は心持ち窶れた両頬を叩いてすっくと立ち上がり、透き通った能声で一同に法要の開始を呼び掛けた。
その時既に青嵐尼は、叱責の最中に縮こまった背を若き士官の様に弛みなく伸ばし、忽ちにして威儀を正していた。
滑稽なくらいに鮮やかな〝君子の豹変〟だったけれど、彼女の挙措を嘲る者はいなかった。
青嵐尼の凛然たる佇まいは満座の毒舌家たちが息を呑むほどに美しかったのである。
無音の雷撃に打たれた私達はただ眼を瞪り、壊れた絡繰人形の様に黙して頷いてみせることしか出来なかった。
レェスの天幕から凍てつくほどに白く冴え渡る月の沙漠へと歩み出でた私達が青嵐尼に導かれた先は、白亜の柱が一本佇むばかりの四阿の跡。
四阿跡は涸れて巨大な窪地となり果てた泉水の岬に位置し、此処に立てば視界を遮られること無く壮大な英国式庭園の全容を眺め渡すことが出来た。
そして、そのまま夜空を仰げば、船底に寄り添うて泳ぐ鯨の心地で月の航行を隈無く望むことさえ叶った。
此の庭園を造り上げた豪商タイラー翁は、日の本の歌詠みならざるも月を愛でるやまと心の持ち主だったのであろう。
「見て。月が、とても、きれい・・・光が冷たくて、凍って、しまいそう・・・骨まで」
「本当に。まるで雪景色だ。これが死に絶えた月世界の眺めだっていうなら悪くはないよ。やっぱり、綾乃さんの見立ては正しかったのかも知れないねえ」
玲瓏たる天上の真珠を見上げたエロイーズは身体を震わせながらジュスティーヌの袂に縋りつき、ジュスティーヌもまた温もりを求めて友にひしと寄り添うている。
降り注ぐ清冽なる月光は、どうやら毒となって二人の少女の華奢な身体に染み入り骨の髄をも蝕んでしまったとみえる。
「言った筈ですよ、叢神様のお見立ては見事だと。闇を湛える干上がった虚ろな海。白骨の欠片のような真砂ばかりの沙漠。わたくし達の前に広がる光景こそ月世界。ディアーヌ姉様が御自慢の望遠鏡の向こうに見ていた・・・そして、これから還るべき天上界の眺めそのものに違いありませんわ。わたくし達は今、月にもっとも近い所に立っているのです。こうして仰ぎ見る月に一番近しい場所に。
感じて御覧くださいまし。眼で耳で鼻で口でそして膚で。やがて辿り着くべき月世界を。そして、御姉様を。五感の限り感じてくださいまし。御姉様になった心地で。御姉様と融け合ったつもりで、どうか。感じてくださいまし」
朋輩らの寄せる言葉に感激を覚えたらしい墨染のドレスの淑女は月に向かって合掌しつつ導師に先駆けて情熱的な法話を始め、居並ぶ一同にしめやかな詩的感動と当惑とを一どきに味わわせる事となった。
最初のコメントを投稿しよう!