第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

30/66
前へ
/1264ページ
次へ
「今なら、此処が月世界だと言われても信じられそうだわ。あたくしにも。 さっきまでは、すぐ其処の本願寺の方が余程に〝月宮殿〟らしいと思っていたけど。 あすこったら祇園精舎の鐘が聞こえてきそうなんですもの、本場の」 常にセリーヌに憫笑を以て報いてきたマリアンヌさえ、此の時ばかりは月の巫女の預言に耳を傾け、しめやかに独り言つのみ。 少女らはみな(もだ)し、眼を瞑っている。 きっと彼女たちは、廃園を渡る夜風の声と(はだえ)に染み入る月光の感触の中に、在りし日の友人の(おもかげ)と声、体温や匂いを感じ取ろうとしているのだ。 「・・・それじゃあ、御勤めを始めよう。 先ずはあたしに続いて復唱一回。次に練習一回。最後に本番一回でお願いするよ。 恥ずかしがらないで、大きな声で元気にいこう。そうしないと供養にならないからね。 綾乃さん、馨さんは皆を良い塩梅に助けてあげて下さいね。 さあ、皆さん。準備は良いですか?」 参列者の黙想を静かに見守っていた青嵐尼は、エロイーズ嬢が眼を開いたのを潮に読経の開始を呼び掛けた。 〝はい!〟 爽やかで威勢の良い尼君の声音に誘われ、快活な返事が弾ける。 導師というよりも寧ろ代用教員めいた青嵐尼の物腰にはクルチザンヌたちの胸を擽る魅力が備わっていたらしく、彼女らは浮ついた様子で何事につけても〝はい!〟とあどけなく(いら)え、ややもすれば〝はい、先生〟とすら口にしてみせた。  学校というものに縁の薄いジュスティーヌらにとって、学校を連想させる事物に触れることは此の上もなく感興を催すものであるらしい。 そして、斯く在りえたかも知れない自分自身を演じてみせるのも。 ※本願寺:ここでは築地本願寺をさす。 現在の鉄筋コンクリート造りの古代インド風の本堂が竣工したのは昭和九年(1934年)のこと。 斬新なデザインについては谷崎潤一郎〝細雪〟でも、サイレンが鳴りそう、といった主旨の台詞がある。
/1264ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4250人が本棚に入れています
本棚に追加