第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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「導師様!どうか読経を続けさせて下さいまし! 御姉様が月の都へお還りになるには、これではいけないのですわ。きっと、わたくし共は未だ御法(みのり)の天衣を仕立て終えてはいないのです。 さあ皆様。どうか御一緒にお経を。声を合わせてお経を。もっとお経を、もっともっとお経を」 振り返る暇も与えず青嵐尼の法衣に(すが)りついた隻眼の淑女は、蛙の様な嗄れ声で必死に懇請に及んだ。 病か或いは怪我の為に損なわれたらしいセリーヌ嬢の喉は既に疲労の極みにある筈だけれど、まるで杜鵑(ほととぎす)の如く、血を吐くのも厭わぬばかりに叫びを迸らせる。 「セリーヌ、静かにしな。ランちゃんを困らせるんじゃないよ」 「わ、たし、たちも、気持ちは、一緒・・・でも、わがま、ま、は、駄目。 きっ、と、ディアーヌ、は、こんな、わたしたちの姿、見たくない、はず・・・だよ」 激情に駆られたセリーヌ嬢を宥め、青嵐尼から引き離したのは、すっかり御目付役が板についたジュスティーヌとエロイーズである。 「ジュスティーヌ。エロイーズ。貴女たち、これで御姉様が月に還れたとお思いですの? マリアンヌ、貴女も。 感じますでしょう、御姉様の気配を。()だですわ・・・未だ、御姉様の御霊は重力の鎖から解き放たれてはいません。未だ、未だ、未だ、未だ、未だ、未だ、未だ」 朋輩たちの説諭で正気を取り戻し〝嗚呼。御無礼を〟と法衣の袂から手を離したのも束の間、再び寄せ来た情念の波に理性を押し流されたセリーヌは黒い面紗(ヴェール)越しにも(さや)かな真っ赤に血走った眼で辺りを見渡して執念(しゅうね)く訴え続ける。 きっと、足りないのです。 何かが足りないのです。 奇跡を成就させるべき何かが。 月世界への扉を開く鍵が。 嗚呼、月は猶も遠い儘。 いいえ、そればかりか月は猶も遠ざかってゆくばかり・・・ 月迄の距離は三十九万(キロ)。いいえ、距離などは意志の前には無きに等しい些末ごと。 絶望的なのは、月は地球から毎年約三(センチ)ずつも遠ざかっているということです。   嗚呼、わたくしたちは・・・ 永劫に埋まらぬ三糎を追い続けるアキレスなのでしょうか?
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