第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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天幕に戻り、紫檀の卓子を囲んだ私たちは満を持して持ち寄った料理の披露に取り掛かった。 先ほど空腹を訴えたクルチザンヌの女王マリアンヌのみならず、仕事を終え緊張の糸がすっかり弛んだ青嵐尼(せいらんに)もお腹を鳴らし、辛抱しきれぬ様子でそわそわとしている。 「ランちゃんも、おなか、すいたんだね。 でも、安心、して。たくさん、作ってきたの」 「エロイーズ、もう勿体振らないで中身を見せてくれよ。あんた、あたしが幾ら聞いてもずっと内緒にしてさ。水くさい。  ・・・ふふん、しかし、導師様が腹ぺこなんて見ちゃいられないね。ちょっと揶揄ってやる。よっ、欠食児童」 まるで三鞭酒(シャンペン)の泡の様に絶え間なく弾ける参会者の笑声が心地好い。 この宴席は御斎(おとき)とは言い条、夜天の下での長閑けき野掛(ピクニック)を愉しむ趣向だったから、開宴に先立ち座が華やいだ雰囲気に満たれてゆく状況は実にお誂え向きだった。 「綾乃先生? その御重を早く開いて下さらない? ほんとおにですわねぇ。 お寿司はあたくしも好物ですの。ちらし寿司かしら?それとも助六かしらん? あたくしという女は薔薇とお酒とチョコレート、あとちょっぴりの香辛料(スパイス)と時々酢飯で出来てますのよ」 「御免なさいね、マリアンヌ。 勿体ぶる積もりは無いわ。さあ、御覧なさい」 募る空腹と好物を前にした高揚の為に極めて早口で捲し立てるマリアンヌは平生の鷹揚さも優雅さも形無しで、苛々とした憎まれ口さえも何処か微笑ましく感ぜられる。 〝衣食足りて栄辱を知る〟とは言うけれど、どうやら彼女の戴く驕りの宝冠の栄光も、(かつ)えの錆には抗えなかった様ね。 この瞬間私は、蜘蛛の巣に捕らわれた蝶を観察するような冷酷な好奇心を源にして、聖女の慈愛が胸裏の奥深くに白蓮の如く咲き初める奇妙な感覚を秘かに味わっていた。 ・・・こんな高慢な毒婦(わたし)も慈悲深く恭謙に振る舞えるものなのね。魘される病者(びょうざ)を見下ろす地歩にさえ在れば。 マリアンヌが望むまま銀蒔絵の富士が映える〝業平東下り図〟の重箱を開いてみせると、それを見詰める一同は俄に〝わあっ〟と感声を迸らせる。 馨は会心の作が一先ずは会衆の眼を喜ばしめた事を見届け、謹直な面持ちはその儘に極く幽かな安堵の息をついた。 「見て、ジュスティーヌ! お星さま、みたい・・・で、きれい!」 「わっ、!おい! ちょっと、やめなって、お馬鹿!」 お寿司が無二の好物だというエロイーズは、大きな黒曜石の(まなこ)に綺羅星を散らして輪島塗の御重を覗き込んでいる。 感動のあまり、握り締めたジュスティーヌの袂を盛んに引っ張りながら。
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