第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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Di quella pira(見よ、あの恐ろしき炎を)! 私が警告を発せんとした刹那、既に彼我の間には無疆(むきょう)の懸隔が月の海原の如くに横たわり、事態は不可避の極点へと滑り出していた。 あどけなき少女の眼に(よぎ)った不吉な炎の揺らめきを認めることなく、馨は勧められるが儘に二つの大きな(バスケット)を開く。 籠を取り囲む青嵐尼とクルチザンヌ達は、高揚を堪えて待ちに待った御馳走との対面の瞬間を待ちわびている。 そして彼らは、忽ちにして表情を凍りつかせる事となった。 「どう、かな? 料理、長、さん、と、いっしょに、がんばって、みたの・・・〝さかしま(À rebours)〟風、なの」 芥子雛の様に小さな両の白い拳を握り締め、過度の緊張と興奮の為に白眼に燐光を閃かせたエロイーズ嬢の問い掛けに(いら)える者は無かった。 満座が覗き込む(バスケット)の中には、夜闇よりもなお深い暗黒の海が湛えられていたのである。 漆黒の水面(みなも)に眼を凝らすと、それは紛れもなく敷き詰められた百種(ももくさ)の嘉肴である事が見て取れた。 可憐なるTerroristの口上に曰く─ 竹炭入の麺麭(パン)のサンドウィッチ。 胡麻と黒胡椒を纏った炙牛肉(ローストビーフ)。 黒糖を用いて拵えた黒い茹玉子。 鱣子(キャヴィア)。甲州葡萄。亜米利加の桜桃。 黒豆と鹿尾菜のサラド。 チョコレートと干葡萄のカトルカール。 飲物はブルゴーニュの赤葡萄酒。 エロイーズ嬢が用意した二つの(バスケット)に詰め込まれていたのは、驚くべき事に悉く真っ黒の食物(しょくもつ)だったのである。 おまけに野掛の食卓を彩らんとするのは、黒の掛布(クロス)に燻銀のカトラリー、黒地金彩の皿。 「ちょっと、エロイーズ! 料理が皆真っ黒じゃないか! 魔女の食卓だってもう少しましな絵面だよ!なんて悪戯するのさ!」 「・・・悪、戯じゃない、よ、ジュスティーヌ。こ、れは、ね〝喪の宴〟なの。 ランちゃん、さん。綾乃さん、馨さん。信、じて。悪戯じゃ、ないの。 マリアンヌ、と、セリーヌは、知ってる、よね、ユイ、スマンスって? これ、は、月の女神への、弔意の証。真剣に、つくった、の」 酸漿の様に染まった顔で、開口一番(いかずち)の叱声を叩きつけたジュスティーヌに毫も怯むことなく、おかっぱの少女は修道女めいた佇まいで説諭に臨む。 辿々しい語調には似付かぬ大粒の黒真珠の様な瞳の輝きに真っ向から射竦められたジュスティーヌは、女怪(メデューサ)に睨み付けられたように石塊(いしくれ)の沈黙を余儀なくされたのであった。 ※Di quella pira(見よ、あの恐ろしき炎を):ジュゼッペ・ヴェルディ作のオペラ〝イル・トロヴァトーレ〟第三幕の楽曲の題にちなむ。 カトルカール:仏語。パウンドケーキのこと。 ユイスマンス:十九世紀末フランスの作家。ジョリス=カルル・ユイスマンス。内務省の官僚として勤務しながら創作を行った。〝さかしま〟は彼の代表作の題名。
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