第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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「私にも教えてくれないかい、是非」 口一杯に料理を詰め込んだ青嵐尼も、栗鼠の様な眼差しを向けて不分明な声で願い出た。 猛烈な勢いで食べ、かつ酒杯を呷る青嵐尼の姿に恐れをなしたクルチザンヌらは一様に引き()った微苦笑を貼り付け、無言で頷く。 小刻みにこくこくと首を振る様は宛ら歯車の錆びついた自動人形(オートマタ)の所作の如くである。 清浄(しょうじょう)たるべき月の沙漠にはまるで場違いの蛮殻(barbaric)な振る舞いを前に、隻眼の淑女(セリーヌ)の傍らに飾られた小さな遺影のディアーヌさえ心持ち眉を曇らせた様に見えた。  「・・・そうですわねぇ。 思い出。一体何処からお話しすれば良いものやら。風狂そのものの子でしたから。呟くのは何時も寝言のような事ばかり。 そうですわねぇ。ああら・・・困りましたわぁ。 改めてあの子の事をお話ししようとすると、酷く輪郭がぼやけてしまいますの。言葉にしようと試みる程に」 空腹を訴えながら料理よりも葡萄酒ばかりを口に運ぶマリアンヌは難解な彫刻の寸評を求められたかの様に暫時呻吟し、やがて肩を竦めて投了を宣した。 宿酔の霞に覆われてなお紫電一閃の機知(エスプリ)を放つ彼女の脳髄を以てしても、死せる月の巫女の人物像を鮮明に描き出す言葉を見つける事は能わなかったのである。 この難問中の難問の前にはマリアンヌの為体(ていたらく)も詮方無し、と顔を見合せ頷きあったジュスティーヌとエロイーズは苦心しながら一生懸命に在りし日の俤の素描(デッサン)を試みる。 「なんせ、うちの店が誇る変物中の変物だからね、あいつは。 〝つきぐるい〟の渾名は伊達じゃないよ。 そうだねえ・・・どんな奴か、って改めて()かれると困っちまうね。 人嫌いの癖に皆に好かれてて、部屋に籠りがちで・・・趣味は月理学(セレノグラフ)と天体観測。話題はいつも月のことばかり。宗教は麻薬ですよ、とか放言しながら自分が一等神憑りじみてるのに気付きやしない。おまけに最期は手厚い葬式で送られちまった。本当は、高慢ちきなさみしがりやだったかもね。奇天烈な事を言ってあたしらを引っ掻き回して。 あ。そうそう、青白い顔をしてるのに、妙に力持ちだったね、あいつ」 「酔っ払いの、大男を、階段から突き落とし、た、ものね。マダムは、牛若丸みたいだ、って言ってたね。 ・・・いきなり、菜食主義者(ビジテリアン)になった事も、無かった? 冷たい、のか、熱、いのか、よく分からないひと・・・でも、おもしろい、ひと、だったね。 わたし、は、好き、だったな。ディアーヌ。あのこは、わたしの、こと、嫌いだった、かな? お別れは、とても寂しい・・・けれど、こんな急、な、お別れも、ディアーヌらしい、気がするの」 崇拝する姉君の思い出を語る二人を優しげな眼差しで見詰めていたセリーヌは、まるでステンドグラスの前で聖書の絵解きに臨む熱心な修道女の様な声調で風狂の少女の精神世界のあらましを一同に説き示してみせた。 「ディアーヌお姉様は此の穢らわしい現世が窮屈で仕方なかったのですわ。無に還ることがお姉様の夢で御座いましたから。どんな感情からも自由で、縛めのない、広漠な無のわだつみに還ることが。実朝が遠い海の彼方の霊山に恋い焦がれた様に、お姉様は遥か天上の月世界に楽園を夢見ていたのです。 何者にも求められず、何者も求めない清らけき無垢なる世界。そうですわね、仏教ふうにいえば〝本来無一物〟の境地で御座いましょうか。 夭折は、お姉様の無上の憧れで御座いました。 ですが、未だお姉様の御霊は重力の鎖に繋がれた儘・・・嗚呼、何ということ! 断ち切らなくては断ち切らなくては早く断ち切らなくては何としても何としても何としても何としても・・・」
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