第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

48/66
前へ
/1264ページ
次へ
ディアーヌ嬢を形容する〝狂気〟さえ虚偽(そらごと)に過ぎなかったとの疑惑が思惟の海原に黒い巨鯨(いさな)の如く浮かび上がり、クルチザンヌ達は一どきに沈黙を余儀無くされた。   玉虫色の残像を遺し、煙と消えた謎多きディアーヌ嬢の人物像を解き明かす唯一の(よすが)を喪い、私達は皆立ち惑うばかりである。 朋輩らのよく知る俤が、儚き幻影に過ぎなかったとすれば。 そして、慣れ親しまれた筈の言動の全てが、全き虚像に過ぎなかったとしたら。 わたしたちは、いったい、だれの喪に服すというのだろう。 月に還りたい、という願いは、果たして真意だったのかしら? 胸裏で幾ら問いを重ねても、月の姫君の御霊は冷徹に黙し続けるだけ。 肖像そのものは限りなく透明に近付きながら、霊魂の鉛の如き沈黙は質量を備えて私たち参会者の上に重く伸し掛かってくる。 暗鬱な静寂に身を置くうち私には、ディアーヌの夢見る月世界とは天翔る舟で渡る雲上の仙境ではなく、大車渠貝の虚舟(うつろぶね)で潜航すべき千尋の水底に在る暗黒の浄土なのかも知れないとすら思い做された。 「ときに皆様。  生前のディアーヌ様は、どの様な〝好き嫌い〟をお持ちでいらっしゃったのでしょうか。 ・・・食べ物。音楽。絵画。芸能。どんな分野でも構いません。 或いはどんなものにも等しく無関心でいらっしゃったのか。 私めがディアーヌ様の肖像を心の内に描くために、どうか教えて下さいませんか? ほんの些細な事で構いません。 皆様にとっては些末な記憶でも、私にとっては亡き人を思い浮かべる掛け替えのない(よすが)となります。 折角、法会への参列に与れたのです。  私めにもことをお許しいただければ、無上の幸いに御座います」 疑念の自家中毒に(かか)り、ジュスティーヌらが語るべき言葉を失ってしまった事で〝葬送〟は俄かに暗礁へと乗り上げた。 しかし、我が従僕はしめやかな声音で斯く促し、難破しかけた祭儀を再び順流の上へと押し返してみせたのである。 謹厳なる家令(スチュワート)に過ぎない馨は格別に優れた弁才は持ち合わせていなかったけれど、その職分に培われた社交の弥縫術は紛れもなく卓抜の一言に尽きるわね。 
/1264ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4250人が本棚に入れています
本棚に追加