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歌劇-第二場-
「それで、綾乃様は有坂様の為に公演を受け入れてくれる劇場と演じてくれる歌手を捜されるのですね。
・・・御言葉では御座いますが、これはまた思い切った事を」
翌朝。
朝一番の珈琲(コーヒー)を味わう私の下へ、蒔絵の盆で新聞を捧げ持ってやってきた馨に昨日の歌劇を巡る一件について話して聞かせると〝途方も無い〟と言いたげに嘆息する。
「貴方が呆れ返るのも理解出来るけれども、有坂先生の白鳥の歌(シュヴァネン・ゲザンゲ)を世に問うか否かは、芸術界の歴史を分かつ重大な問題だと思うわ」
私は馨の無言の苦言に微苦笑を以て応えるのみに止め、強いて理解を求める事はしなかった。
「されど、その費えは決して軽いものでは御座いますまい。
此度ばかりは家政に与る身として沈黙を決め込む訳には参りません」
「御免なさい。
理解してとは言わないわ。けれど、芸術への投資もまた高貴な者の果たすべき責務の筈よ。そして、今は正に危急の秋。
無為徒食の階級たる事を宝冠として戴く私が階級的義務を果たすのは今しか無いのよ」
馨の抗弁を退けた私は空の珈琲茶碗を卓に置いて立ち上がり、背(そびら)を返す。
「馨、車の用意を」
有坂総一郎の悲願を叶えると誓った以上、直ちに東奔西走しなければならぬ。今日は知己の劇場関係者や音楽関係者を訪ねて交渉するのだ。
「・・・はい、直ちに」
馨はそれ以上諫言を並べ立てる事もせず、込み上げる種々の言の葉を刹那の沈黙の内にすっかり胸裏深くに仕舞い込み、完全に錠を下ろしてみせた。
「・・・馨。
正しいのは、貴方の方よ」
私は部屋の扉を閉ざす前に背後を省みぬ儘、我が忠臣に言った。
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