第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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「へえ、浪花節か。確かに、あいつらしくない趣味だね。どうせ素直に鑑賞してた訳じゃないんだろ? インテリゲンチアのディアーヌの事だから、皮肉を並べ立てて散々貶してそうだ。いつも王様みたいな口ぶりで大衆を馬鹿にしてたんだから」 「ディアーヌ、は、高貴な〝よけいもの〟 ・・・だもの、ね。浪花、節が、すきな人まで、嫌っていそう」 俄かに明かされたディアーヌの浪曲愛好は余りにも意外であったとみえ、ジュスティーヌとエロイーズは顔を見合せ共に首を傾げる。 知的選良を以て任じ、己の優れた知性を自負するディアーヌ嬢は〝大衆〟を蔑むきらいがあったという。 そんな高慢な彼女が、某かの悪意に因らず大衆的な芸能に耳を傾ける事など到底有り得ぬとジュスティーヌらは信じていたのであった。 朋輩らの棚卸しに一頻り耳を傾けた隻眼の麗人は小さく首を振ってその錯誤を正し、それから神子寄(みこよせ)の如く天降れる月の女神の預言を()べ伝える。 「・・・ジュスティーヌ。エロイーズ。それは誤解ですわ。生前お姉様が浪花節を貶されることは、御座いませんでしたよ。 いいえ、寧ろ、浪花節を絶えず擁護していらっしゃいました。お姉様が仰有るには」 ─人情。義理。忠義。 fanaticな三味線の伴奏で歌い上げられる、こうした湿っぽくてむわっとした浪漫が、どうしようもなく慕わしいようですね、わたしたち日本人は。 好むと好まざるとに拘わらず、これが私たちの民族精神(フォルクス・ガイスト)なんでしょう。潔く認めなきゃなりません。 知識階級が(こぞ)って浪花節を嫌うのは、それが見たくもないほど精巧な自画像だからですよ。きっと。かなしいですね。 度数の合わない舶来の眼鏡を掛けて、敢えて眼を反らし続けてきた醜い自分自身の面貌(かお)。悪意をもって勝手に動き出す鏡像。 そんなものを眼と鼻の先に突き付けられりゃ、誰だって拒絶します。 あんまり精密すぎる肖像画というのも不可(いけ)ません。この上もなく嫌悪感をそそりますから。 半世紀の後、大和魂なんてものは殆ど死に絶えているでしょう。 おっと、時節がら特高には気を付けないと厄介ですね。誤解でしょっぴかれるのも厭ですから。 セリーヌ。浪花節はですね、大和民族の精神の〝標本〟なんですよ。 きっと美しい蝶々や化石の標本箱を眺めるように、後世の私たちは、浪花節を鑑賞していますよ。 そう遠くない将来、知識階級は三葉虫の化石を眺めるようにしかつめらしく浪花節を鑑賞していると思います。 もうその時、彼らを苦しめた恐るべき影はすっかり力を喪い、手頃に飼い慣らされてしまっているでしょうね。まるで文鳥か金糸雀の様に。 わたしが浪花節を聴くのはね、セリーヌ。標本鑑賞の一環だからです。 他でもない、わたしたち自身の精神の標本のね。
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