第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

53/66
前へ
/1263ページ
次へ
セリーヌが会衆に示してみせた四つ目綴りの和装本は、月明かりにも(まばゆ)い絢爛たる装丁の逸品だった。  表紙は紫の地に黄金の角倉金襴の意匠。凍りついた仏舎利めいた指が繰る金砂子の(ページ)には、若々しく奔放な筆跡()が踊り回っている。 そして、頁が捲れるごとに鼻腔を擽るのは、花のように芳しい唐渡りの墨の香。 題簽(だいせん)に記されていたのは〝(とおる)〟の一字。 セリーヌが手にするのは謡本。 正確には其の、いとも華麗なる写本(マニュスクリプト)であった。 「・・・まあ、(とおる)。 〝つきぐるい〟のディアーヌさんらしい演目ね。ディアーヌさんは(うたい)も嗜んでいらして?」 ジュスティーヌらの懐旧談にはまるで浮かび上がらなかった意外な趣味に興を催した私は、装飾写本を恭しく捧げ持つセリーヌに尋ねる。 「いいえ。謡の御稽古などは、まるで。 何方からか頂いた此の謡本(うたいぼん)を御愛読なさっていただけですわ、お姉様は。あとは浪花節同様、ラジオで。まるで昆虫の観察をするような愉しみかたで、御能に親しんでいらっしゃったようにお見受けします」 「ふうん、野良学者のあいつらしいね。 もしかしてそれ、怪奇劇? 融って、源融(みなもとのとおる)だよね。 廃墟に住み着いて女の血を吸い付くす亡霊になったっていう。そいつ、綾乃さんの同類じゃないの?」 修道女の熱心な祈祷の様な調子で紡がれるセリーヌの声に耳を傾けていたジュスティーヌは、眉間に皺を寄せて私の瞳を覗き込む。 「安心なさい、ジュスティーヌ。 怪奇劇なんかじゃないわ。この演目の融大臣(とおるのおとど)は、宛ら天降れる月世界の住人。ディアーヌさんと一緒ね。 最後に彼は夜明けと共に月に還っていくのよ。 ・・・そして、もし〝今昔物語〟の挿話が真実だとしても、彼は少なくとも同族ではないわ。何か別種の妖異よ」 半可通の知識に基づく二つの誤解を簡略な解題と併せて否定すると、ジュスティーヌは〝そっか、なら良かった〟などと呟き、何やら独り合点して頻りに頷いている。 良かった、というのは〝融〟が恐怖劇でなかった事を指すのかしら。それとも私が恐るべき幽鬼の類族でなかった事を指すのかしら? 「嵯峨天皇の十二番目の皇子様で、遠い子孫には鬼退治で有名な渡辺綱がいたわよね。まあ、雲の上の御人ねぇ。それにしても、御先祖様が偉大だと何だかんだ言って子孫も食いっぱぐれないものなのかも知れないわねえ? ジュスティーヌ、エロイーズ。あなた達も知っていて? 源融、何を隠そう光源氏のモデルなのよ? 駄目よぉ、もっと勉強しなくっちゃ。 そうそう、源融といえば、陸奥塩竈の景色を模した大庭園を自慢にしていたとかいう普請道楽の趣味人(ディレッタント)よねえ? 途方もなく遠い未知の世界に夢中になるような所もそっくりだわね。ほんとぉに月人って、妙な御連中」 分別顔に似合わぬ愚問を発したジュスティーヌとは裏腹にマリアンヌは、源融の名を耳にするや大きな榛色の瞳を知的好奇心に煌めかせ、蘊蓄と小言と感慨とを都の錦と()き混ぜた長広舌を振るう。 「ね、綾乃さん。 もしかして・・・ディアーヌ、が、月、に還る為、に必要なもの。遺して、くれた本の、中に、隠されていない、かな? ディアーヌは、探偵小説のお話を、わたしに、聞かせて、くれた事、も、あるの・・・あの、こ、秘密、だとか、謎、解きも、好き、だったみたい」 盛んに酒杯を重ね、酔いを深めたマリアンヌの無遠慮な高吟放歌を儚げな微笑で穏便に()なすエロイーズは、不意に小さな手を挙げ、淡雪の様な声で斯く疑義を呈した。 ※解説は次頁
/1263ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4250人が本棚に入れています
本棚に追加