第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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「エロイーズ、私も同感よ。 月の女神の遺した星界報知(Sidereus Nuncius)は〝融〟の詞章の中に隠されているのかも知れないわね。 皆で一緒に〝融〟を(ひもと)いてみましょう」 かの謡本こそ、帰天の奇跡を成就せしめる秘術を蔵したディアーヌ最後の謎掛けに違いない。 斯くしたエロイーズの論旨は大いに首肯できるものだったから、巫女なる私は早速一同を次なる祭儀へと導いた。   「・・・よし。どうすりゃあいつが月に還ってくれるのか、もう一回考えてみよう。 あたし、能楽はまるで不案内だから、ランちゃんも知恵を貸してよ。何だか面白そうだしさ」 「合点承知。このままディアーヌさんが成仏できないまま退散するのは忍びないからね。 まあ、恥ずかしながら不案内なのは私も同じなんだけれど。 しかし、その御能、中身が気になるなあ。塩竈のことも色々書いてあるのかな?」 尽きせぬ回想談の数珠繰りにも行き詰まりを感じつつあった一同は、喜色を浮かべて新たな謎の(もと)へと馳せ向かう。   セリーヌの示した遺品が月世界渡航を叶える天国の宝鑰(キィズ・オブ・ザ・キングダム)。 或いは重力遮断物質(ケイヴァーリット)かの真贋は殆ど問題ではなかった。私たちは只管に沈黙と、その果てに待ち受ける神話の死産とを恐れていたのである。 「この演目、一体どんな内容ですの、先生。 源融が月世界の住人だって仰有いましたわよねぇ? 幾ら月卿雲客とはいっても、人の子ですもの、まさか竹の中からお生まれになったなんて道理は御座いませんでしょう? 御教授願えませんこと?出来れば手短に」 能楽に疎い一同を代表し、堂々たる挙措で案内を請うたのはマリアンヌ嬢だった。 毫も含羞を交えず宛ら群臣へ下問するが如く高らかに不知を宣する姿は、とても清々しく凛然たる詩情に満ちている。 「ええ、勿論よ。 謎解きに取り掛かる前に、あらすじの説明が必要ね。心配しないで頂戴? 気塞いな演説を聞かせる積もりはないわ」 そんな帝都半社交界(ドゥミ・モンド)の女王の威風に惚れ惚れとしながら、私は鷹揚に請け合ってみせた。 昔々─ 確かに月並みなPrologよね。 言わせないで頂戴。野暮な子。 等閑な気持ちではいけないわ、貴女たち。 馨も気を引き締めなさい。 確かに、演説にお付き合い頂く気は無いわ。 けれど─ 私たちは、これから船人(シンドバード)にならなくてはいけないの。 王様(シャフリヤール)の役は、今宵はお預け。   これは暫しの航海。 月世界渡航なのですもの。 昔日を偲ぶのは、月世界を流離うのも同然でしょう? 悠遠なる極点へと遠ざかり続ける点に於いては、過去も月も等しい位相に属しているのだから。   さあ、錨を上げて帆を広げましょう。 天つ風を得た船は、飛び切りの快速で星の海を翔るわ。 どれだけ速いか、ですって?  そうね─ 亀を追うアキレスよりずっと、とでも言っておこうかしら。 ※Sidereus Nuncius:ガリレオ・ガリレイが最初に出版した科学哲学書のこと。星界の報告。
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