第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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「御理解いただけたかしら、皆さん?」 〝融〟の筋書を語り終え斯く呼び掛けると、ジュスティーヌらは例の如く〝はい、先生〟とラムネの泡の様に爽やかな返事を弾けさせた。 つくづく彼女たちは女生徒ごっこがお気に入りらしい。 先生と呼ばれる快さに擽られた私も、つい花唇(くちびる)を綻ばせ〝よく出来ました〟なぞと教師口調で(いら)えてしまう。 「・・・名残。もしかして、ディアーヌ、こ、んなふう、に月に還りたいの、かな。 それが、心残り、なのかも。さっき、みたいに、みん、なで(うたい)を、お供えしたら・・・満足して、貰えないかな?」 粗筋を踏まえ、死せるかぐや姫が〝融〟の謡本を遺した理由について改めて推察を巡らせ始めた会衆の中で、果敢に(さきがけ)一番槍を買って出たのはエロイーズ嬢である。 極度の訥弁には不釣り合いの古武士の如き度胸を内に秘める彼女が、能弁の友人に先んじて論議の口火を切るのは珍しい事ではない。 素性も真名(まな)も花と秘す少女娼婦のエロイーズだけれど、繊細な風姿の内に流れる彼女の蛮勇の血は、武名高き高貴なる遠祖の存在を想像せしめるのに十分だった。 事実エロイーズは店の人々から落魄した旗本か赤貧の鍋取公卿の姫君と信じられ、且つは敬われ且つは哀れまれる位地にあったのである。 尤も、酷く暢気なエロイーズは周囲の人々が向ける眼差しの意味になど気付く事はなかったけれど。 「いいかもね、それ。面白そうだ。 でも誰か先生が必要だよね。あたしもあんたも御能は不案内だしさ。セリーヌも、詳しいわけじゃないんだろ? ねえ、綾乃さん。その曲の文言や節回しは分かるかい? あたしらに手解き、お願い出来ないかな」  エロイーズの提言に賛意を示し、悪戯っぽく瞳を輝かせたジュスティーヌは私の眼を覗き込み、(うたい)の指南を請うた。 「ええ、勿論よ。嗜み程度の俄か師匠で宜しければ喜んで」 謡や仕舞は永らく親しんできた稽古事だったから、例え件の角倉金襴の写本を借りずとも〝融〟の詞章は全て、そらで謡い上げることが出来る。 「わあ・・・あり、がとう!綾乃、先生!」 ジュスティーヌの願いに鷹揚に請け合い、快諾の微笑を浮かべてみせると、牙を剥く毒蛇を思わせる勢いでエロイーズが身を乗り出し、ひしと握り締めた私の両手を激しく上下に揺さぶった。 (うたい)の手解きを引き受けた事が、自身の発意に対する私の称賛の証と思い做され、嬉しくて堪らなくなった様ね。 彼女が時折示す斯くの如き感情の突沸は、幽けき声と辿々しい弁舌の所為で意志の薄弱を疑われがちなエロイーズが、その実、豊かで鮮烈な情動と確固たる意志の持ち主であることの証左である。
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