第二十五章 葬送あるいは月世界渡航

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十分です、主よ(サティス・エスト・ドミネ)十分です(サティス・エスト)。 ・・・シャビエル上人みたいな事を言うのねえ、セリーヌ。 あたくしよりよっぽど耶蘇かぶれだわ、貴女。 まあ兎に角。貴女の姉上様が、思う通りになさいって命じてるなら、その通りにすりゃ良いのだわ。 飛び切りの奇跡が成就するには思い切りが必要だものねえ。イエス様だって、あたくし達を救うには、裏切られて磔刑に処される必要があったのですもの。凄い思い切りよねぇ?」 セリーヌの開陳した神秘哲学に独り合点した様子のマリアンヌは大輪の牡丹の様な花唇を不敵に歪め、鐘の様な哄笑を響き渡らせた。 法螺の謗りを顧みず普蘭師司怙(ドン・フランシスコ)の受洗このかた信仰の火を守り続けた由緒正しい加特力教徒(カトリック)と号して憚らぬ〝耶蘇かぶれ〟のマリアンヌは、青嵐尼や朋輩らの困惑を他所に自ら弄した冗句に一頻り笑い転げる。 「ねえねえ、先生? セリーヌはやっぱり西班牙人ではなくて、シャビエル上人とお揃いのバスク人ですわよねぇ? 誘惑が通じないところも、言う事がまるで理解し難いところも一緒ですもの。そぉ思わなくって?」 「それなら今の貴女も十分バスク人よ、マリアンヌ。 ・・・白湯を飲んで少し落ち着きなさい。女王の威厳も形無しだわ。馨、白湯を差し上げて」 「ああら。Merci」 興の赴く儘あたり構わず管を巻く酔客の(さが)を俄かに露呈したマリアンヌだったけれど、私の諫言に耳を貸すと、お気に入りの馨の前で威儀を正さんとする廉恥とは失われていなかったらしい。 馨から紅茶茶碗を献じられるや、彼女は女王の二つ名に恥じぬ優美な所作で静かに白湯を喫し始めた。 「ああ、御免あそばせ。つい悪ふざけが過ぎてしまいましたわ。 白湯、とっても美味しゅうございましたわ。それにしても、本当に素敵な給茶器(サモワール)。 お茶も白湯も何でも美味しくなるんですのねえ。まるで魔法ですわよ、魔法。 さあて。これで、あたくしの喉も万全。セリーヌ、ジュスティーヌ、エロイーズ、準備はよくって? 先生、導師様、家令さん。〝岬〟へ参りましょう。雲一つなく、夜風も穏やか。船出には丁度良い頃合いでしょう。正に、にきたつね、にきたつ。そうでしょう? いざ、にきたつ」 暫しの後、白湯を飲み干し息をついたマリアンヌは、紫檀の椅子から立ち上がり、高らかな下知と共に緩やかな足取りで天幕の外へと歩み出す。 〝にきたつ〟という珍妙な符丁は、おそらく額田王の名歌の下の句の〝いざ漕ぎ出でな〟の()いに違いない。 ※解説は次頁。
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